「私はあなたで、あなたは私です」避難の実体験に基づいた知識を活用するUNHCRウクライナ職員
世界人道の日、故郷を追われた経験を自らの仕事に活かす3人の職員に話を聞きました
公開日 : 2022-08-31
2022年8月20日 ― ウクライナのドニプロでUNHCR保護担当補佐官を務めるオレクサンドラ・リトビネンコ職員は、2度にわたって故郷を追われました。2014年、故郷ルハンスクで初めて政府軍と親ロシア軍の戦闘から逃れた時、彼女はせいぜい数週間の滞在になると考え、夏服を数着だけ荷物に入れただけでした。そして、二度と戻りませんでした。
シエビエロドネツク市で国内避難民として生活していた彼女は、当初仕事を見つけるのに苦労しました。しかし、ルハンスクの地元当局で子どもや家族に関わる仕事をしていた経歴から、UNHCRの仕事に就くことになりました。2月、ロシアがウクライナに侵攻した時には、シエビエロドネツクの現場班の班長になっていました。昼は食料、シェルター資材、その他の必需品の配給を手配し、夜は壕の中で寝泊まりしていた数週間後、彼女とチームはドニプロに避難しました。
「2度目(の避難)です。何を持っていけばいいのか、どんな服がいいのか、分かっていました。夏服、秋服、冬服を少しずつ…と、前回とは違う感じで持ってきました。」とオレクサンドラ職員は言いました。「2回目は、もう二度と戻って来ないということが分かっていたのです。」
オレクサンドラ職員は自身の経験を基に、共に協力して避難を強いられた人々の支援に取り組んでいます。帰還できない可能性があると説明するのはこの仕事で一番苦しいことですが、彼女自身のこれまでの人生がそのための準備でした、と彼女は語りました。
「私は人々を、そして彼らが家も親戚も何もかも置き去りにしてきたことを理解しています。しかし私は彼らに“人生は続きます”と説いているのです」と彼女は言い、仕事のストレスは運動や友人と過ごすことで解消するようにしていると付け加えました。
「私は避難民で、それは親戚や友人の中にも避難民や2度の避難を強いられた人々がたくさんいることを意味しますが、だからこそ、人助けをしていると気持ちが楽になるのかもしれません。」
「人道支援従事者は、親切で広い心を持たなければなりません。人々のニーズを理解し、いつどこででも、援助やサポートを提供する準備ができていなければなりません。」
UNHCRウクライナの保護アソシエイトであるオレクサンドラ・ルキアネンコ職員は、この戦争が始まった時、キーウの家からの避難を強いられました。「6歳と9歳の子どもたちは、爆発音を極度に怖がっていました。私たちは急いで子どもたちを、ウクライナのより安全な場所に連れて行きました」とオレクサンドラ職員は語ります。
リヴィウで、オレクサンドラ職員は何が起こったかを振り返る時間がほとんどありませんでした。彼女はすぐにUNHCRのチームに加わり、ポーランドとの国境で活動を開始しました。
「2、3月、大勢の人々がウクライナを逃れ、国境には長蛇の列ができました。私たちは、人々が情報、そして法的/社会的支援にたどり着けるようにしなければなりませんでした」とオレクサンドラ職員は回想します。
ウクライナで庇護希望者を支援してきた彼女の7年間に及ぶ経験は、現在ウクライナ西部と南部で近隣5か国との国境通過点30か所を網羅する支援ネットワークを構築する際に著しく役立ちました。
戦争から逃れて来た人々の話を聞いていると、オレクサンドラ職員は時々、感情を抑えきれなくなります。
「ある集合センターでは、空襲で妻を亡くした男性が1人いました。彼は泣き、そして私たちは彼の話を聞いて涙を流しました」とオレクサンドラ職員は語りました。「人道支援者として、たとえ痛みが耐え難い時でも、いかにして助け、支援するかということを常に考えているのです。」
「私は、個人的な避難体験が最高の人道支援者を形成すると考えています。ひとたび家を追われれば、数百万の人々と同じ状況に置かれ、彼らと同じように家族のシェルターや子どもたちの学校を探すのに苦労し、彼らのニーズを深く理解することになります。」
「2009年、ダマスカスの大学に留学していた時、そこにはたくさんの友人がいました。2011年に戦争が始まると、彼らの多くは国外で庇護を希望せざるを得なくなりました。彼らは難民となったのです。私はとても同情しました。これが人道支援者になろうと思った理由です。この経験と知識があれば、ウクライナの人々を本当に助け、人道的な仕事を通じて貢献できると感じています。」
「ウクライナは私の家族です。私は手助けをするため、ここにいなくてはならないのです」元難民で現在はソーシャルワーカーのアバス職員は言います。
アバス・アメディ職員はイランで生まれ、26年前からウクライナに住んでいます。かつて難民であった彼は、現在キーウでUNHCRのパートナー団体であるロカダNGOでソーシャルワーカーとして働いています。彼はウクライナで起きている残酷な戦争の影響を受けている人々や避難民を支援しています。
「キーウ州では、開戦以降、多くの家屋が損傷、または破壊されました。人々は打ちのめされています。子どもや孫を育て幸せな家庭生活を送るために、全財産を投じて家を建てた、と多くの人々が私たちに話します」とアバス職員はUNHCRに語ります。
ロカダNGOはキーウ地域で活動しています。毎週、アバス職員は住宅や民間のインフラが大きな被害を受けたキーウ市郊外を訪れています。同僚と共にニーズを把握し、家が壊れたり破壊されたりした人々に必需品や緊急用シェルターキットを配布しています。
2月24日の開戦時、アバス職員は外国で仕事をしていました。その日の朝、娘たちから「お父さん、戦争が始まった、怖くてたまらない!」と泣きながら電話がありました。彼は悩みませんでした。まず飛行機でワルシャワまで、それから列車でリヴィウへ。あっという間に、キーウの自宅に戻りました。防空壕で数日間生活した後、アバス職員の妻と子どもたちはポーランドに逃れることにしました。
彼女たちを駅まで送ってから、彼はキーウに戻ってきました。「軍隊には入りたくなかったし、武器とは関わりたくなかったので、教会に行ってそこで人を助けることにしました。」
NGOロカダが採用すると、アバス職員はチームの一員となりました。
「私はこの国が本当に好きなので、意識的にウクライナに留まり、住むことを選択しました。私の家族ですから、この地が大変な時に出て行きたくはないのです。私はただ、ここにいて、自分にできることをしたいのです」とアバス職員は言いました。
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