From the Field ~難民支援の現場から~ With You No. 42より / 南スーダン・ジャムジャン事務所 保護官 小池 克憲
公開日 : 2019-10-18
UNHCR 南スーダン・ジャムジャン事務所 保護官
小池 克憲(こいけ かつのり)
決してあきらめることなく、何度も同じ不満を繰り返すスーダン難民の人々。だけど、私たちも一歩も引くわけにはいかない。難民の方たちとのこのような本気のやりとりが、私が南スーダンで活動している2年以上の間、ずっと続きました。
―― 人々が不満を訴えるその訳は、スーダン国境近くのイダ難民居住地から70キロほど離れた難民キャンプに難民たちを移動させるという、南スーダン政府およびUNHCRの方針にあります。イダ居住地は、2011年に勃発した内戦によりスーダンから南スーダンに逃れてきた人々によって自発的に形成されました。難民たちの所有する故郷の土地やコミュニティへの思いは強く、いまだ紛争が終結していないにもかかわらず、多くの人々は避難先の南スーダンと母国であるスーダンとの間を頻繁に行き来します。そのため国境に近いイダ居住地の立地はとても重要です。しかし、遠くの難民キャンプに移れば、今ほど簡単には国に戻ることができなくなります。

人々が保護環境の整った別のキャンプに移らなければならなくなった背景には、イダの安全保障上の問題があります。居住地から故郷にアクセスしやすいということはその逆も然りで、例えば反スーダン政府軍がイダ居住地に来て難民の男性や子どもの徴兵を行うという事態が、2016年まで毎年起きていました。そのためUNHCRと南スーダン政府は人々を保護する環境に適していないイダ居住地を閉鎖し、同地での支援の縮小と人々を70キロ先のキャンプで保護する計画を立てたのです。でもスーダン難民の方々は、たとえ危険が近くに潜んでいても故郷に近く住み慣れた場所に留まりたい人が大半で、イダで支援を続けてほしいのです。当然、話し合いは一筋縄にはいきません。国際保護の観点からすれば常識的な主張でも、そこに生まれ、生きてきた人々の思いとは食い違うことがあるのだということを身をもって知りました。
UNHCRの職員も難民コミュニティのリーダーたちも、頭ではお互いの理屈をわかっていても、話し合いはどこまでも平行線をたどる。その一方で、そんな事情を知らない子どもたちは私たちに人懐っこく接してくれて、その屈託のなさを何度もありがたいと思いました。一緒に遊んだひと時は、とてもいい思い出です。かといって、難民との関係が、政治的で、お互いの思惑が入り組んだやりとりだけだったかというとそうではなく、日々顔をつきあわせて話をするなかで、ある種の信頼なり関係性が生まれてくる。そこでは相互尊重に基づく、透明で、明確なコミュニケーションがとても重要になります。難民コミュニティのリーダーに「最も人道的なUNHCR職員だ」と言われたことは、今でもとても誇りに思っています。
南スーダンでは、このように自分の知らない難民コミュニティ独自の常識と出会うことが多くありました。難民キャンプには親を失ったり親と離れて暮らすスーダン難民の子どもが数千人いるのですが、多くは、親たちが故郷に戻っている間、キャンプにとどまっている、というケースです。その子どもたちが一人ぼっちで取り残されて、なすすべもないのかというとそういうわけではなく、親たちが託した親戚や知り合いが、当然のように子どもたちの面倒を見ているという光景があります。このようなセーフティネットが、コミュニティの結束が強いがために成り立っていることにも驚きました。
「イダは危険だから、UNHCRはここで支援を続けることはできない」。「なぜスーダンから近いイダで支援できないんだ」。スーダン難民の人々の支援の現場を思い出すとき、まっさきによみがえるのは、頑ななまでに続いたこのようなやりとりです。難民の方たちがすごく大切にしていることと、難民保護の原則が食い違っていたということ。そこが本当に難しい部分でした。国際保護の基準や難民条約に沿って難民の人々を保護することは、もちろん大切だと思います。でも同時に、大切なのはそれだけではないとも感じています。
同じくらい、もしくはそれ以上に大切なのは、「難民の人たちにとって最善の策は何なのか?」ということを考え続けること、そして難民という境遇にある人々と話し合い、答えを模索していくことではないかと思うのです。
プロフィール
UNHCR駐日事務所でのインターン後、2007年より難民支援協会職員として援助の実務に携わる。2011年からUNHCRに所属。ケニア・カクマキャンプ事務所、タイ・バンコク事務所を経て、2016年9月から2019年6月まで保護官として南スーダン・ジャムジャン事務所勤務。イダ難民居住地の保護活動を担当。