史上初の難民選手団、リオオリンピックへ!

歴史上はじめて、難民アスリートのチームが五輪旗のもとで競いました

公開日 : 2016-08-02

スタンディングオベーション!
難民選手団を包んだ大歓声 -開会式-

その温かく心のこもった歓迎は、スタジアムを一つにするかのようでした。 「Refugee Olympic Team (難民五輪選手団)!」そのアナウンスよりも先に、あちこちからわきあがった歓声。オリンピック旗を掲げたローズ・ナティケ・ロコニエン選手(南スーダン出身)を先頭に、難民選手団がスタジアムに入場すると、さらに大きな歓声と拍手が会場中に巻き起こりました。

代表選手たちと話すグランディ高等弁務官
ケニア・ナイロビのトレーニングセンターで代表選手たちと話すグランディ高等弁務官

開会式に出席したフィリッポ・グランディ国連難民高等弁務官は話します。「難民選手団の入場を待ちながら、私はとても緊張していました。期待とともに、この巨大なスタジアムの大観衆が、難民の選手たちを一体どんなふうに迎えるのだろう、という思いだったのです。しかし、失望することはありませんでした。選手団の入場がアナウンスされると、皆立ち上がって拍手を送ったのです。それは単にブラジル一か国だけでなく、世界中が連帯する力強さを物語っていました」。

地元ブラジル選手団への声援の次に大きい、力強く温かいスタンディングオベーション。それは難民選手団だけではなく、世界の約6500万人の難民・避難民へのメッセージのようでした。
まだ興奮が冷めやらない様子のグランディ高等弁務官は続けます。「あるメディアがこう記しました。『彼らはもうすでに勝利している』」と。それはまさに真実です。その言葉を口にするだけで胸が熱くなります」。

また、IOC(国際オリンピック委員会)のバッハ会長は、開会式のスピーチの中でこう語りかけました。
「私たちの住む世界では利己主義が幅をきかせ、一部の人々が他者より優れていると主張しています。しかしオリンピックが示す答えは次のとおりです。オリンピックの連帯の精神に基づき、私たちは最大の敬意と共に、難民五輪選手団を歓迎します」。
バッハ会長がそう言った瞬間、スタジアムには大きな拍手と大歓声が沸き起こりました。その後しばらく拍手が鳴りやまず、会長は次の言葉をすぐに続けられないほどでした。

「親愛なる難民選手団の皆さん。皆さんは、世界中の何百万人という難民に希望のメッセージを送っています。暴力や飢餓、または単に他者とは違うという理由で故郷を離れざるを得ませんでしたが、優れた才能と精神によって、今社会に偉大な貢献をしています。オリンピックの世界では、私たちは人々の多様性を受け入れるだけではありません。私たちの“多様性を認めるという連帯”をより豊かにしてくれる存在として、皆さんを歓迎します」。
バッハ会長の言葉は、難民問題への対応に揺れる国際社会に対しても、強いメッセージとなりました。

難民選手団のもとには、アメリカのオバマ大統領やローマ法王など、世界中のリーダーからも共感と励ましのメッセージが届いています。今や世界中で、難民選手団に大きな関心が集まっています。

そして、感動的な開会式の余韻にひたる間もなく、各選手の競技が次々と始まりました。一人ひとりの選手に温かい声援が注がれ、熱戦を繰り広げました。

ラミ・アニス(25)シリア出身、100メートルバタフライ

「プールが私の家です」

ラミ・アニス

ラミ・アニスはアレッポで生活していた14歳の頃に競泳をはじめました。彼は、シリアでは負け知らずの水泳選手だった叔父のマジャドを信じ、水中での競争への情熱を彼から徐々に教えられました。「水泳は私の人生です」とラミは言います。「プールが私の家です。」
アレッポでの爆撃と誘拐の頻度が増したため、彼の家族は彼を、イスタンブールでトルコ語を学んでいる兄のもとへ渡航させました。「私の荷物はジャケット2枚、Tシャツ2枚、ズボン2本だけの小さな鞄でした」とレミは思い出しながら語ります。「トルコには数か月間いるだけで、その後祖国に帰るものだと思っていたのです。」

数か月のつもりが数年になり、彼は有名なガラタサライ・スポーツ・クラブで技術をみがき、練習に時間を費やすようになりました。トルコの国籍のない彼は、試合で泳ぐことができませんでした。「勉強して、勉強して、勉強し続けたのに、テストを受けられない人のようなものです。」

自身を試そうと心に決め、ラミはギリシャのサモス島に行くゴムボートに乗り込みました。結局、彼はベルギーの都市ヘントにたどり着き、そこで週に9回、元オリンピック競泳選手カリネ・ヴェルボウェンとの練習に励んでいます。
「このエネルギーを持ってすれば、最高の結果を出せるという自信があります」と彼は言います。「オリンピックに参加するのは、素晴らしいことでしょう。」

ヨランデ・マビカ(28)コンゴ民主共和国出身、柔道女子70キロ級

「柔道はお金にはならないけれど、精神的な強さを手に入れました」

ヨランデ・マビカ

ヨランデ・マビカは幼いころ、コンゴ民主共和国東部の紛争によって家族と引き離されました。1人で走っているところを、ヘリコプターに救い上げられ、首都キンシャサまで運ばれたこと以外はほとんど何も覚えていません。そこで避難民センターで暮らしているうちに、彼女は柔道に出会いました。
ヨランデは大きな試合に出場するようになりました。「柔道はお金にはならないけれど、精神的な強さを得ることができました」と彼女は語ります。「家族と別れ、昔はよく泣いていました。柔道のおかげで、よりよい人生を送れるようになったのです。」

自身を試そうと心に決め、ラミはギリシャのサモス島に行くゴムボートに乗り込みました。結局、彼はベルギーの都市ヘントにたどり着き、そこで週に9回、元オリンピック競泳選手カリネ・ヴェルボウェンとの練習に励んでいます。
「このエネルギーを持ってすれば、最高の結果を出せるという自信があります」と彼は言います。「オリンピックに参加するのは、素晴らしいことでしょう。」

2013年に彼女がリオで開催された世界柔道選手権大会に行ったとき、彼女のコーチは海外大会でいつも行うように、彼女のパスポートを没収し、食事を制限しました。大会で負けた時の監禁など、数年来の虐待にうんざりし、ヨランデはホテルを逃げ出し、助けを求めて道路をさまよいました。
今、ブラジルで難民として、彼女は難民五輪選手団の一員としての地位を勝ち取り、ブラジル人の五輪銅メダリスト、フラビオ・カント氏が設立した柔道スクールでトレーニングを受けています。「私はこのチームの一員となり、メダルを獲るでしょう。私は負けず嫌いのアスリートで、これは人生を変えることができる機会なのです」と彼女は語ります。「私の話がみなさんにとって良い前例となることを望んでいます。そして、もしかしたら、私の家族が会いに来てくれて、再会できるかもしれません。」

パウロ・アモトゥン・ロコロ(24)南スーダン出身、陸上男子1500メートル

「ここに来るまでは、トレーニングシューズさえ持っていませんでした」

パウロ・アモトゥン・ロコロ

たった2~3年ほど前、パウロ・アモトゥン・ロコロは、南スーダンの草原で家族が所有する数頭の牛の世話をしていました。彼は、生まれてからずっと紛争のさなかにある自分の故郷以外、世界のことを「なにも知らなかった」と言います。その紛争の結果、彼は隣国ケニアに逃れることになり、そこで新しく、大きな野心を抱くようになりました。「世界王者になりたいのです」と彼は語ります。
難民キャンプで暮らしながら、パウロは学校の体育で優れた成績を収め、最終的に、世界記録保持者として有名なケニア人ランナー、テグラ・ロルーペの指導のもとでナイロビ近郊でトレーニングをしている難民チームのメンバーになりました。「ここに来るまでは、トレーニングシューズさえ持っていませんでした」と彼は語ります。「今、私たちは、通用するレベルになったと思うまでトレーニングを重ねており、アスリートであるということはどのようなことであるかを実感しています。」

2013年に彼女がリオで開催された世界柔道選手権大会に行ったとき、彼女のコーチは海外大会でいつも行うように、彼女のパスポートを没収し、食事を制限しました。大会で負けた時の監禁など、数年来の虐待にうんざりし、ヨランデはホテルを逃げ出し、助けを求めて道路をさまよいました。
努力は報われ、パウロはリオに行くことになりました。「とても幸せです」と彼は言います。「難民を代表してレースに参加することは分かっています。私も難民キャンプで暮らす難民の1人でしたが、今や特別な地位を得ました。私はこれからたくさんの人に出会うでしょう。祖国の人は私のことをテレビやフェイスブックで見るでしょう。」しかし依然として、彼の目的は単純です。「もし良い結果を出せたら、それを家族や祖国の人々の助けとしたいです。」

ユスラ・マルディニ(18)シリア出身、女子競泳200メートル自由形

「私は皆さんに、苦しみの後、嵐のあとには落ち着いた日々がやってくるということを示したいのです」

ユスラ・マルディニ

脆弱なボートに水が入ってきたとき、ユスラ・マルディニは何をすべきか分かっていました。彼女のほかに20人程の捨て身の旅行者を乗せ、トルコの海岸沖を漂流し、シリア・ダマスカスからやってきた10代の少女は姉のサラと共に水の中に滑り込み、ギリシャに向けてボートを押しはじめました。
「乗客の中には泳ぎ方を知らない人もいました」と、2012年にFINA主催の世界水泳選手権にシリア代表として出場したユスラは言います。「私たちのボートに乗っていた人が溺れたら、それは恥ずべき事だったでしょう。私はそこに座ったままで、溺れゆくことに文句を言うつもりはありませんでした。」
ユスラは危険に満ちたその航海の間に靴を失くしましたが、多くの命を救ったことを考えれば、小さな代償だったと言えるでしょう。ギリシャのレスボス島に到着した後、彼女は亡命希望者の一団と共に、時々人身密密航業者に頼りながら、北へ向けて旅しました。

2015年9月にドイツに到着してからほどなくして、彼女はベルリンにあるヴァッセルフロウンデ・スパンド04というスイミングクラブでトレーニングをはじめました。今、彼女は18歳で、リオ・オリンピックの女子200メートル自由形部門に難民選手団の一員として出場する準備をしています。 「私はすべての難民を代表したいです。苦しみの後、嵐の後には落ち着いた日々がやってくるということを皆さんに示したいからです」と彼女は語ります。「それぞれの人生で、なにか良いことを成し遂げようという気持ちになってほしいのです。」

イエーシュ・ピュール・ビエル(21)南スーダン出身、陸上男子800メートル

「私は難民の仲間たちに、人生にはチャンスも希望もあるということを示すことができます」

イエーシュ・ピュール・ビエル

イエーシュ・ピュール・ビエルは人生で成功したければ、自分自身で成し遂げなければならないだろうことを、早い段階から知っていました。2005年にスーダン南部の紛争から逃れることを余儀なくされ、彼は結局自分でケニア北部にある難民キャンプにたどり着きました。彼はそこでサッカーをはじめましたが、多くをチームメイトに委ねなければならないことにフラストレーションを感じるようになりました。走ることでは、彼は自分の運命をよりコントロールできると感じました。
「私たちは皆、たくさんの困難に直面しています」とイエーシュは語ります。「難民キャンプにはなんの設備もないのです。靴すらありません。ジムもありません。日が昇ってから夕方まで、晴れていてとても暑いので、気候すらトレーニング向きではありません。」

けれども、彼はやる気に満ちています。「私は故郷の国、南スーダンのことを気にかけています。なぜなら変革を起こすのは我々若い世代だからです」と彼は言います。「そして2つ目には、両親のことを気にかけています。彼らの生活を変える必要があるのです。」
リオ五輪で陸上800メートルの競技に参加することで、各地にいる難民のための大使になれるかもしれない、とイエーシュは言います。「私は難民の仲間たちに、人生にはチャンスも希望もあるということを示すことができます。教育を通じて、そしてマラソンでも、世界を変えることができます。」

ローズ・ナティケ・ロコニエン(23)南スーダン出身、陸上女子800メートル

「リオでは、私の故郷を代表するでしょう」

ローズ・ナティケ・ロコニエン

1年前まで、ローズ・ナティケ・ロコニエンは彼女の才能をほとんど自覚していませんでした。彼女は10歳の時にケニア北部に逃れて以来、アマチュアとしても一度も試合に出たことがありませんでした。それから、彼女が暮らすケニア北部の難民キャンプ内の競技会で、先生に10キロメートルレースに出ることを提案されました。「それまでは、トレーニングなどしたことがなかったのです。私にとってそれが初めて人前で走ったときで、2着になりました」と微笑みながら言います。「本当に驚きました!」
ローズはケニアの首都ナイロビの近郊にあるトレーニングキャンプに移り、オリンピックの800メートル部門で走るために準備しています。「私はとても幸せでしょうし、準備をしっかりして自分自身の能力を証明できればと思っています」と彼女は語ります。彼女はスポーツを賞金や承認を得るための手段だけでなく、他者に感動を与える方法としても考えています。「リオでは、私の故郷を代表していますが、もし私が成功したら、戻ってから平和を促進するためのレースを行い、人々をひとつにすることもできるでしょう。」

ところで、彼女は未だにけがのことを心配しています。「これが私の一番の挑戦です」と彼女は語ります。最近まで、彼女はプロのランニング・シューズではトレーニングしていませんでしたし、プロの指導も受けていませんでした。彼女は依然として、1年と少しの間に、この境地に達したことに驚いているようです。「私はスポーツとしての走ることができ、今やそれは私のキャリアでもあります。」

ポポル・ミセンガ(24)コンゴ民主共和国出身、男子柔道90キロ級

「柔道が私に平常心、規律、義務…すべてを教えてくれました」

ポポル・ミセンガ

ポポル・ミセンガがコンゴ民主共和国内のキサンガニで紛争を逃れたのは、まだ幼い頃でした。家族と引き離され、8日間森をさまよったのちに救助され、首都のキンシャサに保護されました。
そして、避難民の子どものための施設で、彼は柔道と出会いました。「子どものころは、何をするべきかについて教える家族が必要だけれど、私にはいませんでした。柔道が私に平常心、規律、義務…すべてを教えてくれました。」
ポポルは熱心な柔道家になりましたが、試合で負ける度に、彼のコーチは彼にコーヒーとパンしか与えず、檻に何日も閉じ込めました。とうとう、2013年にリオで行われた世界選手権で、彼は食べ物を取り上げられ、最初の予選で敗退したことをきっかけに、彼は庇護を求めることを決心しました。
「母国では、私は家を持たず、家族も子どももいませんでした。内戦によって多くの人が死に、混乱状態に陥っており、私は人生をよりよくするためにブラジルにいようと思いました。」

難民として認定された後、ポポルはオリンピック銅メダリストのフラヴィオ・カント氏によって設立された柔道スクールでトレーニングをはじめました。「私は夢を追い続けるために、そしてすべての難民の悲しみを取り除き、希望を与えるために、難民選手団の一員になりたいのです」と彼は語ります。「私は難民でも大きなことができる、ということを見せたいです。」彼は自分の存在を親戚に気付いてもらうことも望んでいます。「メダルを勝ち取り、そのメダルをすべての難民にささげたいと思います。」

ヨナス・キンド(36)エチオピア出身、マラソン

「難民キャンプではなんでもできます」

ヨナス・キンド

ルクセンブルクの街を見晴らす丘の上で、ヨナス・キンドは決意と感謝の気持ちをもって、滑るようにトラックを走っています。。
「日増しに力がみなぎってくるのを感じます」とエチオピア人マラソンランナーはトレーニングの後で、細い顔から笑顔を溢れさせながら言いました。「私は普段も毎日トレーニングをするのですが、このニュース[編注:難民五輪選手団についてのニュース]を聞いてから、オリンピックの試合に向けて、1日に2回のトレーニングを毎日行ってきました。このニュースが大きなモチベーションになったのです。」。
現在ルクセンブルクに住んで5年になるヨナスは、ほぼ動き続けています。彼は定期的にフランス語のクラスを受講しており、タクシー運転手として生活費を稼ぎ、その間中、よりよいランナーになるための訓練を欠かしませんでした。2015年10月、ドイツで、彼は2時間17分という印象的なタイムでマラソンを完走しました。

「難民キャンプではなんでもできます。」しかし、家から避難した記憶は、未だに不快なものです。「とても厳しい状況でした」と彼はエチオピアでの生活について語ります。「エチオピアで生きることは私には不可能でした…命の危険があったのです。」
ヨナスにとって、世界最高レベルのランナーとリオデジャネイロで走る機会は、他のどんなレースにも代えられないものです。「難民や若いアスリートが全力を尽くせるということは、大きなメッセージになると思います」と彼は語ります。「もちろん、私たちは難民ですし、問題もあります。ですが、私たちは難民キャンプではなんでもできますし、それは難民アスリートには救いです。」

アンジェリーナ・ナダイ・ロハリス(21)南スーダン出身、女子陸上1,500メートル

紛争が彼女の町に近づくにつれ、「すべてが破壊されました」

アンジェリーナ・ナダイ・ロハリス

アンジェリーナ・ナダイ・ロハリスは6歳の時から両親に会っておらず、スーダン南部にある彼女の家から避難することを余儀なくされました。戦争が彼女の住む村に近づくにつれ、「すべてが破壊されました」と彼女は語ります。アンジェリーナは両親は生きていると耳にしましたが「去年の飢饉はとてもひどいものでした。」両親を助けることが一番の動機となり、彼女はリオでの1,500メートル部門の試合のためのトレーニングに励んでいます。
彼女は、現在住んでいるケニア北部の難民キャンプで行われた学校対抗の競技会で優勝した後に、運動競技が得意であると気づきました。ですが、彼女がどれほど足が速いか気付いたのは、プロのコーチが特別なトレーニングキャンプに参加するアスリートを選抜するためにやってきた時でした。

「驚きでした」と彼女は語ります。
今や彼女はリオデジャネイロで良い成績を残し、賞金が出る主要な国際試合で良い成績を収めたいと思っています。「お金があれば、人生を変えることができますし、これまでの人生に縛られる必要がありません」とアンジェリーナは言います。良い成績を収めたらまずやりたいことといえば?「お父さんにもっと良い家を建ててあげることです。」

ジェームス・ニャン・チェンジェック(28)南スーダン出身、男子陸上800メートル

「良く走ることによって、私はほかの人を助けるためになにか良いことをしているのです」

ジェームス・ニャン・チェンジェック

13歳のとき、ジェームス・ニャン・チェンジェックは子ども兵を強制的に補充する反乱軍の誘拐を逃れて、当時のスーダン南部にあった彼の家から避難しました。隣国ケニアで難民として、彼は高地にある多くのランナーを輩出していることで有名な町の学校に登校し、年長の男子のグループに交じって、長距離部門のトレーニングをしていました。「その時、私はランナーとして成功するかもしれないと気づきました。そして、神が与えた才能ならそれを使うべきだ、とも」と彼は語ります。
最初は、彼はふさわしいランニングシューズを持っていませんでした。他の人に借りることもありましたが、彼は身にまとうものは何であれ、その足で勝ち取っていました。「ランニング用ではない靴を履いているので、私たちは全員足にたくさんの傷がありました」と彼は言います。「その頃、私たちは靴を共有していました。もしあなたが2足靴を持っていたら、何も持っていない人を助けるでしょう。」

ジェームズはリオに行って、他の人に感動を与えようとしています。「速く走ることによって、私はほかの人を助けるためになにか良いことをしているのです。特に、難民のために」と彼は語ります。「もしかしたら難民の中には才能があるのにまだ何のチャンスも与えられていないアスリートがいるかもしれません。私たちもそうした難民でしたが、今リオに行くというチャンスを与えられました。私たちは同胞を顧み、私たちの兄弟姉妹がどのような状況にあるかを知らなければなりません。もし彼らの中で才能がある人がいれば、私たちと一緒に訓練することで、彼らの人生をよりよいものにできるでしょう。」

歴史的な一勝をあげ、大歓声をあびる柔道のポポル・ミセンガ選手(コンゴ民主共和国出身)。勝ち進むことはできなかったが、大いに会場を沸かせた。「会場に入った時、自分には応援はないだろうと思っていましたが、ブラジル全体が応援してくれました。とても胸が熱くなり、勝たなくてはと思ったのです」。
「やった!勝った!」ポポル選手の勝利に歓喜する、コンゴ民主共和国からの難民。ブラジルに暮らすコンゴ難民が集まり、UNHCRのパートナー団体の事務所で試合を観戦した。



シリア難民、聖火ランナーの大役を果たす

2人のシリア難民聖火ランナー

4月26日ギリシャ のアテネでは、右足を失ったシリア難民のアスリート、イブラハム・アル・フセインさんが聖火をつなぎました。イブラハムさんは、オリンピックを目指す競泳選手でしたが、母国の紛争のなか、右足を失いました。難民としてギリシャに避難した後は、夜間にアテネ郊外のカフェで働きながら、車いすバスケットボールや水泳の選手としても活動しています。
「私はこの聖火を自分自身のためだけに繋いでいるのではありません。シリア人、世界中の難民、ギリシャ、そしてスポーツや私のチームのために繋いでいるのです」とイブラハムさんは語ってくれました。

また、開催国ブラジルでは、12歳のハナンさんが、聖火ランナーを務めました。
ハナンさんと彼女の家族は、シリア難民を対象にした人道査証プログラムによってブラジルにやってきました。現在ブラジルでは、約2,100人のシリア難民が政府の受け入れ政策により新しい生活を送っています。
地元の人々のたくさんの声援に応え、大役を果たしたハナンさんは「スポーツで一番大切なことは、楽しむこと。そして友だちをつくること」と語ります。「私が聖火リレーに参加することによって、難民は実際に存在し、そして私たちも社会に貢献できる、と世界中の人々に知ってほしいのです」。
ハナンさんは、家族を受け入れてくれたブラジルとブラジル国民に感謝し「争いをなくし、友情を」とメッセージを送りました。

ロコロ選手を見守る母
避難先のケニア・カクマ難民キャンプで、息子のパウロ・アモトゥン・ロコロ選手(南スーダン出身)を見守る母・メアリーさん

難民選手団の競技も、8月21日(日)夜(日本時間)、ヨナス・キンド選手(エチオピア出身)の男子マラソンで幕を閉じました。ヨナス選手は避難先のルクセンブルクで、タクシーの運転手として働きながら懸命に練習を続け、2時間24分08秒、90位という成績で見事に完走!

皆さま、たくさんの応援ありがとうございました!

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