アフガニスタンを逃れて 17歳の学生ジャーナリストからのレポート

公開日 : 2016-08-02

オミッド・アフマディさんは17歳。アフガニスタンの通信社で働き、タリバンに関する報告をした学生ジャーナリストの一人でした。しかしある日、タリバンの兵士が彼の家をつきとめ、父親に銃をつきつけ家を燃やしてしまったのです。幸い外出中で難を逃れた彼に母親がすぐ逃げるよう伝え、彼は家族に別れも告げず国外へ逃れました。
その後、彼にはどのような旅が待ち受けていたのか…。オミッドさん本人から届いたレポートをご紹介します。

トルコ-ギリシャ。壊れかけたビニールボートでの航海

水は命だと私たちは考えます。でも、時として水はその反対にもなりえます。死です。命の危険にさらされた、トルコからギリシャへの海の上で、その考えはずっと僕の頭から離れませんでした。その恐ろしい航海で、何百人もの人が命を落としてきたのです。
生き残れるかすら分からない海の上で、唯一できるのは希望を捨てないことです。
人間は希望なしには生きられません。
僕たちがトルコから乗ったのは、ビニールボートでした。波は高く、ボートはほとんど壊れかけていました。ギリシャ側に救援ボートが見えた時には、皆叫び出しました。「神に感謝を!神に感謝を!」と。

トルコからギリシャへ渡るボートの上で

僕たちは必死で助けを乞い、ついにそのボートがこちらに向かってきた時には、僕は泣き崩れてしまい「ありがとう」すら言葉になりませんでした。ボートを降りると、食糧やお茶、衣類を手渡してくれた人たちがいました。UNHCRでした。

どんな国にも独自のルールがあるでしょう。僕はギリシャの軍隊のキャンプで約3か月生活しましたが、彼らのルールに従うよう最善を尽くしました。周囲の人々に微笑んでもらえるよう、自分にできることは何でもやりました。パシュトー語・ファルシ語・ウルドゥ語を話す人々の通訳を買って出たり、ギリシャ兵士向けの店でのシフト制の仕事、石鹸やシャンプー、マットレスなどの物資を人々に配布することなどです。

難民キャンプの女性たちと。キャンプの一室を借りて英語を教えた(ギリシャ)

僕にとって最も心に残っているのは、難民キャンプで少女や女性たちに無料で英語を教えたことです。彼女たちの学びたいという意欲を知り、ただ助けたいという一心でした。

彼女たちを教えることで、僕自身も多くを学びました。とても平和的な環境の中で、僕たちは愛や共感、許容するための種をまくことができたと思っています。

 

 

ギリシャからドイツへ。食糧や水もないまま歩き続ける日々

やがて次第に暑さが厳しくなり、ギリシャでのテントでの生活は過酷になっていきました。ドイツに渡った親戚を探すために出発しようと決意しました。
これは本当に難しいことでした。ギリシャからマケドニア、セルビア、そしてハンガリー。これらの国を通り、国境を越えることはとても大変なことだったのです。
森の中を歩き続ける疲労の中、食糧や水、衛生用品も持たずに旅を続けることはまさに危険そのものでした。

セルビア・ハンガリー間の国境で待つアフガン難民

そしてついに、僕はセルビアとハンガリーの国境までたどり着いたのです。アフガニスタン人をはじめ多くの難民が、国境を渡る許可が下りるのを平原で待ち続けていました。僕は18日間そこで足止めされましたが、トイレもシャワーもなかったのです。家族を持つ人にはテントが与えられましたが、僕は外で寝るしかありませんでした。こうした劣悪な環境に対応し耐え抜いて、目標を達成するという意志を抱き続けるには、勇気と強い忍耐が必要でした。

 

失いかけた希望。そして…

「なぜ僕たちはこんな人生を送っているのだろう?」僕は希望を失いかけました。涙を流しながら、歌を口ずさみました。「私は知りたい。神にはどんな勇気があったのだろう」という歌詞です。歌いながら僕は、「痛み」「ホームレス」「悲しみ」の本当の意味が分かったように感じていました。

以上が、ドイツの難民受け入れセンターにたどり着いたオミッドさんが、UNHCRのスタッフの力を借りながら書いたレポートです。アフガニスタンからの難民は約270万人(2015年末現在)。政治的、社会的に不安定な母国に帰ることができず、長期間にわたる厳しい避難生活を強いられています。

 

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