フォトジャーナリスト 安田菜津紀さん インタビュー

公開日 : 2014-11-21

「伝え続けることが、助からなかった命をつないでいくことになる」

フォトジャーナリストとして活躍され、東南アジア、中東、アフリカや日本国内で貧困や難民、災害の問題を取材している安田菜津紀さん。今年(2014年)9月にヨルダンに渡航し、シリア難民を取材した安田さんに、彼らが置かれている現状をお聞きしました。

今回の訪問の目的と、訪問した場所を教えてください。

昨年9月にザータリの難民キャンプを取材しましたが、今回はその継続という形で、ザータリ難民キャンプに加え、都市部の東アンマンの病院などを2週間に渡って訪問しました。

砂漠の真ん中にあるザータリ難民キャンプ。布一枚のテントでの厳しい暮らし

ザータリの難民キャンプの暮らしとはどのようなものですか。

夕暮れのザータリ難民キャンプ。風が強まると、砂ぼこりに覆われていく
夕暮れのザータリ難民キャンプ。風が強まると、砂ぼこりに覆われていく
ザータリは砂漠の中にあり、昼夜の寒暖の差が激しく、砂ぼこりが大量に舞い上がる環境です。布一枚のテントで、そうした厳しい環境の中で生活するのは大変なことです。

特に子どもたちの呼吸器系疾患が多く発症しています。また、キャンプ内では成人の男性に職がないことが大きな問題になっています。

シリアでは弁護士やテレビのプロデューサーなど第一線で活躍していた人たちが、今は全く何もすることがない状況です。「社会に必要とされていない」というストレスは強く、お酒に逃れたり、家庭で妻や子に暴力を振るったり、という問題もかなり耳にしました。

昨年11月時点での難民キャンプと比べて、何か改善された点はありましたか。

以前と比べれば、インフラの整備は随分と進んでいました。前回の訪問時には女性用トイレにドアがなかったり、汚水があふれていたりしましたが、今回は水や電気がだいぶ整備されてきた印象です。良くも悪くもキャンプが「街」のようになってきていると感じました。以前からある、様々な店が立ち並んだ「シャンゼリゼ通り」に加え、今は「五番街」と呼ばれる商店街のような通りができていました。ただ、街のようになったキャンプに対し、「整備されたのはありがたいが、まだ故郷へ帰る日は遠いということなのか、という複雑な気持ちにもなる」という声も聞かれました。

難民の約半数が子どもですが、子どもたちはどのような状況にありますか。

市場で荷物運びをする少年
市場で荷物運びをする少年
キャンプ内に学校は4つありましたが、全ての学校がシリアとは異なる、ヨルダンのカリキュラムとなっています。キャンプの外にある、シリアとの国境近くの学校では両国の子どもたちが、午前と午後に分かれて授業を行っていました。入れ替えの際に、ヨルダンの子どもたちとシリアの子どもたちが行きかう形になるのですが、すれ違いざまに難民であるシリアの子どもたちに対して、心ない言葉が投げかけられたり、嫌がらせのようなことをされたりして、そのために子どもが学校に行かなくなったりするということも聞きました。

難民キャンプ内の商店街では、働く子どもたちも目にしました。家計を助けるという理由以外にも、何もしないでいるより働いているほうが「戦争のことを考えないですむ」「怖かったことを忘れられる」ため、あえて手伝いをさせている親もいました。

UNHCRの支援活動を見たり、聞いたりすることはありましたか。

難民にとって、UNHCRの難民登録を受けることは生命線です。登録されて始めて、食糧や物資の支援を無料で受けとり、学校へ通うことも可能になります。しかし、ザータリ難民キャンプは8万もの人を抱え、UNHCRの事務所だけでは対応が難しいと感じました。必要な情報が行き届いていないがために、受けられるはずの支援が受けられていない人もいます。また、砂漠の難民キャンプでの生活に限界を感じ、都市部に移る難民もいますが、コミュニティになじめず、職もなく物資配給等の情報も入らないまま、家にこもりきりになってさらに困窮する、というケースも多く耳にしました。広範囲に散らばっている難民のために、情報を伝達し、共有するネットワークをより充実させることが必要とされていると感じます。

今、難民の人々にとって一番大きな問題は何だと感じましたか。

家族の分断ではないかと思います。両親や家族は入国が認められず、怪我の治療のためにたった一人でヨルダンに入国してきた幼い子どもにも会いました。ヨルダンはシリアからの難民を60万人以上も受け入れており、すでに限界の状況で、難民を家族ぐるみで受け入れるのが難しい場合もあるようです。

病院で出会った子どもたち。助かった命と、助からなかった命

今回の取材で、安田さんにとって最も印象に残った人やエピソードを教えてください。

キャンプの外の病院で、二人の子どもに出会いました。一人は9歳のモシナちゃん(仮名)。足に大けがをしていましたが、親はヨルダンへの入国が認められず、彼女だけが治療のために一人で入国し、病院へ送られました。ヨルダンには一人親戚がいましたが、まだ幼い彼女にとって、親と離れて異国での入院生活はつらいものでした。二人目は5歳のアナスくん(仮名)。戦闘に巻き込まれて頭に大けがを負い、最初は話しかけても全く反応がありませんでしたが、最後に会ったときにはかすかに手を振ってくれました。覚えていてくれたことがとても嬉しかったです。私が撮った彼の写真を見せると、付き添っていたお母さんが「歩けるようになった時には、ぜひその姿を撮ってほしい」ととても喜んでくれました。着の身着のままで逃れてきて、思い出の品などは持っていなかったのです。でも、その約束は果たすことができませんでした。帰国後、アナスくんが亡くなったと知らせが入りました。私は彼に何もできず、その命を助けることができませんでした。いったん戦争になれば、争いに何の関係もない人々が、何年も何十年にも渡って傷つけられる。せめて、この現実を伝え続けることで、彼の命をつないでいきたいと思っています。

難民の小さな声に耳を傾ける力を

最後に、UNHCRを通して難民を支援している方、また、まだ支援をしたことがないけれど、何かできないかと思っている方へのメッセージをお願いします。

もうすぐ1歳になる男の子、バーシルくん。母親のニダさんは、いつか子どもと一緒に、美しかった故郷に戻れる日を夢見る
もうすぐ1歳になる男の子、バーシルくん。母親のニダさんは、いつか子どもと一緒に、美しかった故郷に戻れる日を夢見る
難民の人々は、声を大きくあげることができません。「問題が今ここにある」ということを、自分自身で発信することができない状況に置かれています。現実に存在する問題も、多くの人々に認識されない限り、社会からは問題として扱われません。私たちが、彼らの小さな声に「耳を傾ける力」を持つこと、耳を傾け続けるということが大切ではないかと思います。それが、戦争や難民の問題を解決していく一歩になるのではと思います。
「シリアは緑が豊かで、本当に美しい国だったんです。」と懐かしそうに話してくださった安田さん。穏やかな口調ながら、シリアの地とその人々へ寄せる想いと、難民の現状を伝え続けたいという強い意志を感じました。再び来年1月にヨルダンへ向かい、厳しい冬を迎える難民の生活を取材する予定とのことです。

プロフィール

1987年神奈川県生まれ。studio AFTERMODE所属フォトジャーナリスト。現在、カンボジアを中心に、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で貧困や災害の取材を進める。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けている。2012年、「HIVと共に生まれる-ウガンダのエイズ孤児たち-」で第8回名取洋之助写真賞受賞。共著に『アジア×カメラ「正解」のない旅へ』(第三書館)、『ファインダー越しの3.11』(原書房)。
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