From the Field ~難民支援の現場から With You No. 26 ~ / UNHCRジュネーブ本部アフリカ局 吉田典古
公開日 : 2012-03-01
UNHCRジュネーブ本部アフリカ局
吉田典古 (よしだのりこ)
1991年、JPO*としてナイジェリアに赴任し、その後1994年からUNHCR職員としてスーダン、コートジボワール、アフガニスタン、スーダン(現在の南スーダン共和国)で難民支援を続け、現在、UNHCRジュネーブ本部アフリカ局に勤務する吉田職員に、お話をお聞きしました。
Q1 UNHCRで働くようになったきっかけは?

私は子どものころから、困っている人のために何か役に立ちたいと思っていました。それがより具体的になったのは、大学受験の勉強中に、犬養道子さんがお書きになった、タイで暮らすカンボジア難民の記事を読んでからです。難民キャンプの学校で、勉強したい子どもたちが教科書やノートがなくて困っていることを知りました。その記事は恵まれた環境の中にいながら、勉強を嫌がっていた私の目を覚ましてくれました。私は、難民支援の国連機関であるUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)で働こうと決心しました。大学は、犬養さんと同じ津田塾大学に進み、大学卒業後はUNHCRで働くことを目標に、米国のノースウェスタン大学大学院に留学しました。
大学院在学中に、夏季にニューヨークで催される国連のインターンシップ・プログラムに参加しました。日本からの4人を含め、様々な国から90人が参加しました。大学院修了後に受験したJPOの選考試験では、偶然にも、このときに知り合ったニューヨークの国連日本政府代表部の方が面接官でしたので、リラックスしてお話しすることができ、幸いJPOに採用されました。
※JPO(ジュニアプロフェッショナルオフィサー):外務省が実施する派遣制度で、各国際機関で原則2年間、職員として働くことができる。
Q2 実際の援助現場はいかがでしたか?

私はJPOとしてアフリカでの勤務を希望しました。大学時代に盛んに報道されていたスーダンやエチオピアの飢きんや難民の様子が私の心に焼き付いていたからです。この夢がかなって、最初に1991年JPOとして西アフリカのナイジェリアに赴任しました。その後1994年からはUNHCR職員として、スーダン、コートジボワール、アフガニスタン、スーダン(現在の南スーダン共和国)の現場に勤務し、現在はUNHCRジュネーブ本部のアフリカ局に勤めています。
2002年には、タリバン政権崩壊後に何十万もの難民が、パキスタンとイランから帰還を始めたアフガニスタンに勤務しました。私の赴任地ジャララバードは冬も温暖でアフガニスタンでは比較的豊かな地域でしたが、日本の基準からみれば、非常に貧しいうえ、タリバンの本拠地のひとつでもあり非常に保守的な地域でした。私はUNHCRの職員ではありましたが、女性ですから、保守的な政府関係者のなかには握手を躊躇される人もいました。
Q3 避難先から故郷に帰還する人々はどのような様子でしたか?

アフガニスタンでは、収入創出のために小さな事業を始めたいという要望がたくさんありました。養鶏をしたい、ミシンを使って服を作りたいといったものです。目の不自由な女性グループからはビーズでアクセサリーを作りたいという要望もありました。私は今でも、彼女たちの作品を大切にもっています。故郷に戻ってきた人々が非常に厳しい状況でも自立していこうとする前向きな姿に励まされました。
故郷への帰還という意味では、2008年に赴任したスーダン南部のジュバが思い出されます。その頃はまだスーダンとしてひとつの国でしたが、ジュバは後に独立した南スーダン共和国の首都になった街です。スーダンで長年続いた南北内戦が、2005年に成立した包括的和平合意でようやく終結しました。私が赴任したときは、2010年に実施されるスーダン南部の独立の賛否を問う国民投票を2年後に控え、スーダンの北部や周辺国から、故郷のスーダン南部へ戻ろうとする人々の流れがピークに達していました。UNHCRの現地職員も含め、誰もが平和への希望を胸に抱いていました。しかしながら、現実は厳しく、基本的な生活用品や設備がある程度揃っていた難民キャンプと比べ、スーダン南部は首都となるジュバを除くと何もないと言ってもいいような状況です。難民キャンプで生まれ育った若者は、スーダン南部も両親の故郷も知りません。アフガニスタンでも同様でしたが、難民として過ごしたキャンプや街より、故郷のほうが貧しい場合が珍しくありません。それにもかかわらず戻ろうとする理由をたずねると、「自分たちの故郷だから」という答えが返ってきました。シンプルな答えのなかに、故郷に対する帰還民たちの熱い想いを感じました。
私はアフガニスタンでもスーダン南部でも、故郷へ帰還する人々を支援する仕事に関わってきました。帰還する人たちは希望に満ちています。その希望が現実になるように、新しい生活のスタートを支援するのはやりがいがあります。
Q4 帰還する人々はなにを必要としていますか?

たとえば、南スーダンに戻ろうとする人々に何が必要かたずねると、三種の神器のように「学校と医療と水」と答えます。UNHCRは皆様のご支援を受けて、可能な限りこれに応えようとしています。日本と違い、何もないところに建設される学校や医療施設そして井戸が、人々に与えるインパクトは絶大です。完成した施設がその地域の人々にもたらす意義と人々の喜びを肌で感じるとき、私はUNHCRで働くことのやりがいを実感します。
その一方で、帰還民支援の課題も認めざるを得ません。病院や学校を建てても医師や教師がいなければ役に立ちません。医師や教師を手配したり育成したりするのは本来は国の仕事です。私たちが協力して先生を見つけ出し、給与を支払うように頼んでも、国には十分な財源がありません。人材不足解消には大変な時間と労力が必要です。
南スーダン共和国にしてもアフガニスタンにしても、UNHCRが活動する国についてよくいえることですが、難民・避難民・帰還民の将来を考えると、学校教育に対する支援は非常に重要だと思います。紛争や迫害などを理由に避難している間、十分な教育を受けられなかった子どもたち、大人たちがたくさんいます。そうした期間が長引き、人材育成の機会を失ってしまうと、それを取り返すための再教育には大変な時間と労力が必要です。建物のようなハードの部分は、数ヶ月あれば建てられますが、人材を確保するには、長い時間がかかります。そして、人材がなければ国は成り立ちません。たとえ資源があっても、それを活用する人材がいなければ宝の持ち腐れになってしまいます。人材不足解消は、独立して間もない南スーダンの将来にとって大きな課題のひとつです。
Q5 南スーダン共和国の今後についての吉田さんの想いは?

意外に思われるかもしれませんが、南スーダンの大地は非常に肥沃です。たとえばマンゴーがいたるところに自然に実ったりしています。私は、南スーダンが食糧援助を受ける国から自給自足の国になる日を夢みています。日本では5,000円程度ではビジネスは始められませんが、南スーダンでは可能です。たとえば、避難していたコンゴ民主共和国で石鹸作りを覚えた女性の帰還民は、その技術を生かし商売を始め生活が成り立つようになりました。このような小規模ビジネスが家族全体に与える影響は大きなものです。自分たちで働き生活することが生きがいにもつながります。
南スーダンには石油もあります。そうした資源を奪い合うのではなく、上手に使えば豊かな国になれるはずなのに、なかなかそれができないでいます。私はそういう状況に対する歯がゆさを感じます。2011年末頃から、スーダンと南スーダン共和国の国境付近で治安が悪化し、スーダンから南スーダンとエチオピアへ難民が逃れてきています。せっかく手に入れた平和をなんとしても維持して欲しい、そう思わずにはいられません。そのためには、国際社会の支援が必要です。スーダンに限らず、紛争の犠牲者である人たちのことを思うと、自分たちの問題は自分たちで解決しなさいと、単に突き放すことは私にはできません。
Q6 長年の活動のなかで考えさせられることはありますか?

これまでの活動で私が自分に問い続けている問題のひとつは、何が「普通」なのかということです。スーダンにいたとき、私が腐ってしまったバナナを捨てると、子どもがすぐに走ってきてそれを拾っていきました。そこまで貧しかったのかと私は衝撃を受けました。アフガニスタンでもスーダン南部でも、どうしてこんなところに帰りたいと思うのか理解に苦しむような、貧しくて何もないところがあります。何もない故郷に帰還した人たちの「普通」の生活とはどのようなものでしょうか。難民・避難民・帰還民の援助現場で、私たちはいわゆるプレハブ住宅に住むことがあります。プレハブといっても、国連職員のそれは現地の一般的な住まいと比べると水も電気もあり、いいものです。そうした私たちの「普通」、日本の生活における「普通」は、難民・避難民のキャンプでも、彼らの故郷でも、「普通」ではない。「普通」の生活とはどんなものなのでしょうか。
アフガニスタンで、爆弾の恐怖から、女性が道路に座り込んで叫んでいました。日本ではありえない現実が世界には「普通」のものとして存在します。UNHCRの仕事を通して、私にとっては「普通」ではないけれど、現地ではありふれた様々な出来事に接する機会を与えられました。私の世界の見方は変わっていきました。私にとって「普通」ではない世界をもっと見て、その現実の中で、たとえ小さなことでもいいから困っている人の役に立ち、少しずつでも状況を変えられたらいいと思っています。
Q7 現在のUNHCR本部でのお仕事は?

私は今、UNHCRジュネーブ本部のアフリカ局で働いています。国連やUNHCRが世界でどのように機能しているかを知る上でもやりがいのある仕事です。でも、UNHCRは「現場主義」の組織ですから、私個人としては、やはり難民・避難民・帰還民と常に直接寄り添う仕事をしたいと考えています。ですから、私はフィールド(現場)に、いつかまた戻りたいと願っています。現場では、難民・避難民・帰還民が目の前にいます。そして私たちの活動の手ごたえが、その場で直接かえってきます。難民・避難民・帰還民がかわいそうだから助けているという気持ちではなく、私と難民・避難民は人間として対等ですし、むしろ、私だったらどうしたらいいかわからないような状況でも、力強く生きていく彼らから、私はいつも勉強させてもらっています。
アフリカ局ではひとつの国だけではなく、アフリカ全体を見るわけですが、世界の目はどうしても進行中の緊急事態に集中してしまうということを実感します。注目されているところは、それだけ緊急の問題があるところですから当然なのですが、たとえば干ばつや飢きんでソマリア難民が大量に避難して支援が必要な状況にあるとき、同じように、アフリカの他の地域でも難民・避難民が困難と闘っています。注目されない所にも、難民・避難民は存在します。ソマリア難民の苦境と他の難民の苦境を比較することはできません。状況は異なっても、苦境はその難民にとって存在し、支援が必要なのです。ご支援くださる皆様には、報道されている緊急事態だけではなく、長期化して関心が薄れた、しかしながら、支援を必要としている難民・避難民にも目を向けていただきたいと思います。そういう意味では、使途を限定しないで継続的にお寄せいただける「毎月倶楽部」のようなご寄付は、目立たないけれど重要な活動にも充当できるので非常にありがたいものです。
引き続き皆様の温かいご支援をお願いします。
注:2011年12月の一時帰国の際にお聞きし、2012年2月中に加筆したものです。