From the Field ~難民支援の現場から With You No. 25 ~ / UNHCRソマリア事務所副代表 伊藤 礼樹

公開日 : 2011-11-01

UNHCRソマリア事務所副代表
伊藤 礼樹 (いとう あやき)

伊藤職員

1992年国連ボランティアとしてボスニアの人道援助活動に参加して以来、UNHCRで難民支援を続け、ミャンマー、スーダン、ルワンダ、アルメニア、レバノン、ソマリアなどで活動している伊藤職員に、お話をお聞きしました。

Q1 UNHCRで働くようになった経緯は?

私の高校は大学の付属校で、アメリカンフットボールに打ち込んでいたのですが、大学ではそのエネルギーを勉強に振り向けたかったのです。でも大学の雰囲気はそれに応えてくれるようなものではなかったので、アメリカへ留学しました。ミネソタ州のカールトン大学を卒業し、ニューヨークにあるコロンビア大学の大学院で国際法、人権法を学びました。

大学院を修了後、日本に戻り、マスコミへの就職が決まりましたが、4月の入社まで1年近く時間がありましたので、たまたま見つけた国連ボランティアの求人に応募してみました。大学院で学んだ人権法が実際に役に立つのか、会社に入る前に試したかったわけです。面接後1週間して、すぐにボスニアに行けるかと尋ねられ、「はい」と即答したのが今日まで続く人道支援の第一歩でした。何も知らないまま「民族浄化」(エスニック・クレンジング)が始まった頃のボスニア中央(ビテス)へ向かいました。

Q2 当時のボスニアはどんな様子でしたか?

私が派遣された1992年は、ボスニアのクロアチア系住民とイスラム教徒であるボスニア系住民との間で紛争と「民族浄化」が始まった頃でしたので、社会経験なしで飛び込んだ私はものすごいショックを受けました。家を追われたボスニア系住民が通りをぞろぞろ歩いて来る。「助けてくれ、一緒に連れて行ってくれ」と頼まれる。攻撃で燃やされた家に入ると、60才の女性が暴行されたまま呆然と天井を見つめている。頭ではわかったつもりの人権法でしたが、どうしたらいいのかまったくかわかりませんでした。

ボスニアには1995年のデイトン合意直後に派遣されたバニャ・ルカでも3年半ほど活動しました。このときは第8代国連難民高等弁務官として緒方貞子さんが活躍されていたし、資金的にも余裕があり、ジュニア・スタッフの私でも、今では考えられないほど柔軟に活動できました。仕事の内容は、セルビア系住民が紛争前に暮らしていたボスニアの村に帰還するのを、そしてボスニア系住民がその反対のルートで帰還するのをそれぞれ支援するというものでした。

現場で各民族と接触し、NGOなどパートナー団体の活動との調整をやりました。たとえばバスに50人のセルビア系住民を乗せて、ボスニアの村を見に行ったりするのですが、村の家々には国内避難民となったボスニア系住民が住み着いている。バスを見つけたボスニア系住民が騒ぎ出し、セルビア系住民めがけて石を投げたり暴動が起きたりしました。あるとき一人の老人がやってきて、「自分はもう老い先長いことはない、できれば自分の村に帰って死にたい」と頼んできました。私は村の人たちと話し合い、ぜひ老人の想いをかなえてほしいと説得しました。その結果、老人は村に迎えられました。そんなときですね、私が自分の仕事に手ごたえを感じたのは。しかし、こういうことは若くて世間知らずだったからこそできたことですね。経験を積んだ今できるかといわれると、できるかどうか怪しいものです。

Q3 大変な状況のボスニアで活動を開始されましたが、その後はいかがですか?

国連ボランティアとして1992年から93年にかけて仕事をして、1996年に再びボスニアへ戻りましたが、その間にミャンマーとルワンダに赴任しました。1994年初頭からJPO(外務省から国連機関への派遣制度)として、ミャンマーのモンドーというところでバングラデシュから帰還したロヒンギャ系住民がうまく再定住できるように、モニタリングする仕事を2年ほどやりました。そこは首都ヤンゴン(当時)から飛行機と船と車で2日もかかるところで、まだ何もないような所でした。それからNGOが活動を開始しましたが、そのなかの一人だった今の妻と出会ったわけです。モンドーは特別区のひとつでその地の軍司令官が統治していたのですが、私はアジア人同士ということで話しやすかったのか、彼から好かれました。一緒にゴルフをする機会があったのですが、「ナイスショット!」と言いながら、司令官にこの村人の強制労働を減らしてもらえませんかと頼むのです。次にその村に行ってみると労働者の人数が減っている、という具合でした。ゴルフをして遊んでいたわけではなく、そうした人と人との関係も大切なのだと思います。今はゴルフは全くしません。

次の赴任地はルワンダでした。1994年の大虐殺の際に逃げ出していたフツ系の人々が故郷への帰還を始めた頃で、それが安全に進むようにモニタリングをしました。当時は村ごとに牢屋が設置されていてたくさんの人が入っていました。今年の6月に10数年振りにルワンダを訪れましたが、復興、経済の発展には驚きました。

Q4 ずっとフィールド(援助の現場)での勤務が続いていますが・・・。

国内避難民の人たちと伊藤職員
国内避難民の人たちと

2回目のボスニアでの勤務の後、スイスのジュネーブ本部でデスクワークをしましたが、私にはフィールドワークが性に合っていることがわかりました。それで2001年の9.11(米国同時多発テロ)のすぐ後ですが、アルメニアのエレバンで2年ほど働きました。仕事はアルメニアとアゼルバイジャンの間に発生したナゴルノ・カラバフを巡る紛争で、まだソビエト連邦の一部だったアゼルバイジャンから逃がれてきたアルメニア系住民が、地域にうまく溶け込み、再定住できるようにすることでした。この人たちはアゼルバイジャン国籍のまま15年もアルメニアの「コレクティブ・センター」と呼ばれる難民の人々に充てられた古いビルに暮らしていました。国籍法を活用してアルメニア国籍を取得するのか、コレクティブ・センターをアパートに改装し所有権を移譲してそのまま住むのかなど、いわゆる法務関係の仕事をやりました。

次は、2003年から2年間、スーダンのハルツームでエリトリア難民の支援をしましたが、ちょうどスーダンの南北内戦に関する停戦合意が実現されるころでしたから、国内避難民の帰還の準備もあり、同時進行でダルフール地方での人道危機が発生し、非常に忙しかったですね。

スーダンといえば、2011年7月に、南スーダン共和国が分離独立しましたが、UNHCRが心配しているのは、北に避難していた南の人たちが外国人になってしまったり国籍を失ったりしてしまう混乱ですね。どちらの国籍も持てない無国籍者がたくさん生まれる可能性があります。無国籍者の問題は日本人にはなかなかピンとこない問題ですが、国籍がなければ国の保護も受けられないしパスポートや身分証明書も持てないので安全に暮らすことが難しくなります。UNHCRはソビエト連邦崩壊後に生まれた15の国の国籍法改正に協力したという実績があります。デイトン合意後のボスニアで私が勤務していたときも、国籍法の改正の仕事に携わったことがあります。同様に、南スーダン共和国の独立に関しても無国籍者の数を最小限にくいとめる努力が重要な任務になっています。

Q5 WFP(国連世界食糧計画)でも勤務されたようですが?

子ども二人には日本語で話しかけるのですが、その他の家族内での会話は全てフランス語なので、日本で少し仕事ができないかと考えていました。また、自分としても仕事の幅を広げたいと思い、しばらくUNHCRを離れ、東京で2年間、出向のような形でWFPの仕事に就きました。日本政府からご支援をいただくというのが仕事でしたが、日本で働いた経験のなかった私は、まず日本での仕事の仕方を、電話のかけ方から覚えなければなりませんでした。難民・避難民の援助現場での交渉相手は一筋縄ではいかないのが普通になっていましたが、ご寄付をお願いする相手は大切な支援者の皆様ですから、自ずと交渉の仕方も変わり、勉強になりました。不慣れなことが多く、ストレスもいっぱいでしたが、この苦労がUNHCRに戻ってからも、大いに役立っています。

Q6 UNHCRに戻られてからの活動は?

レバノンのベイルートで3年働いた後に、2010年2月からソマリアにおける活動に従事しています。現在は副代表として日々のオペレーションの総括をしています。20年にも及ぶ紛争と17年来の干ばつから逃れるために、90万人が国外で難民となり150万人が国内避難民となっています。ソマリア事務所は国内避難民の援助と保護を中心に活動を行っています。ビニールシートの緊急配布など、UNHCRがよく行う活動とともに、現在は試験的に、避難民の人たちが店に持っていけば1ヶ月分の食糧を手に入れることができる食糧配給券を配布するプロジェクトも行っています。

国内避難民は圧倒的に女性と子どもが多く、子どもたちは程度の差こそあれ、みんな栄養状態が悪いです。各種報道で見受けられる小枝のように痩せた細い腕、MUAC(上腕周囲径=腕の太さを測り栄養失調の度合いを確認する)で危険が示されるひどい栄養失調の子どもが少なくありません。同じ年頃の子どもを持つ身として胸が痛みます。そして平和を知らず、教育も受けられない子どもや若者をどうにかしなければと思います。このままでは子どもたちの未来が失われてしまいますから。

Q7 UNHCRの人道援助活動は危険と隣り合わせのときが多いですが、ご自身はいかがでしたか?

国内避難民と対話する伊藤職員
ソマリアのモガディシュで国内避難民と対話する伊藤職員

イラクのバグダッドで2003年に起きた国連の入るホテルの爆破事件で、UNHCR職員にも大きな犠牲が出て以来、安全対策が厳しくなっています。ソマリアの首都モガディシュに出かけるにも、ジュネーブの国連難民高等弁務官からの直接の承認が必要になっています。現地に着いてからも、空港から外へ出るには装甲車に乗り、ヘルメットと防弾チョッキを身につけなければなりません。ヘルメットに防弾チョッキ姿で国内避難民のキャンプへ出かけるのは忍びない気持ちです。現地の人たちと気軽に話し合うことが難しくなっています。

Q8 そのような危険もあるなか、UNHCRで仕事を続けている理由は?

実は、なぜ自分が人道援助の世界にいるのかここ数年考え続けています。人助けなんて偽善ではないのか、自己満足ではないのか。まだ自分の存在理由の答えが出ていないのが正直なところです。

ただ、ひとつ言えることは、自分の子どもができてから、難民・避難民の子どもたちのことが今まで以上に、とても気になるようになりました。ダルフールへ行ったとき、老人が私の子どもと同じくらいの年齢の子どもを抱きかかえてやってきました。外国人の私を見て医者だと思ったようです。差し出された子どもは、背中をなにかで斬りつけられ、半身不随の状態でした。そのとき私はこの仕事を通じて初めて泣きました。自分の子どもに見えたのです。難民・避難民の子どもたち、そしてその家族に何かしなければならないという想い、それがUNHCRで働き続ける理由のひとつといえるでしょう。

Q9 危険な赴任地もありますが、ご自身のご家族はどうされているのですか?

今は家族でケニアのナイロビに暮らしています。私か妻のどちらかが子どもといるようにスケジュールを調整しています。妻は給水の専門家として同じく人道援助に携わり、世界各地の援助現場を見ていますので、私がナイロビにいるときに出張に行くようにしています。

Q10 最後に日本の支援者の皆様にメッセージをお願いします。

正直に申し上げると、自分の目の前にある課題に対応するので精一杯なので、なかなか気の利いたことを言えないのですが・・・。援助現場ではいろいろな協力団体の間に立って調整をするわけですが、そのときに高校で熱中したアメリカンフットボールで叩き込まれたチームプレーがすごく役に立っていると思います。口で言うのは簡単ですが、本当にチームプレーができる人はそんなに多くはいません。私の場合、どうしたら各プレーヤーの良いところを引き出せるのか、それが自然に出てくるのです。とにかく、きつい経験でも辛い経験でも、いずれ必ず役に立ちます。若い人へのメッセージになればいいのですが・・・。

注:2011年9月にお聞きし、2011年10月に加筆したものです。

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