あなたをジャッジするために、ここにいるわけではないのです モニク・ソクハン 国連UNHCR協会

1970年代、カンボジア。モニク・ソクハンがクメール・ルージュの恐怖と大量虐殺から逃れて国を後にしたのは、彼女がまだ小さな子どもだった頃のことです。母国に残った家族の多くは、生き残ることができませんでした。
「カンボジアのすべての家族が、この大量虐殺、そして戦争の影響を受けています。私は幸運でした。生き残ることができて、逃れることができて。それは、多くの人が叶えられなかったことでもありました。正直、時々ある気持ちに苛まれることがあります。『どうして、自分が生き残ったのだろう……。ほかの人は死んでしまったのに』と。そして、命を落とした人々のために、私には責任があると思うのです。彼らが誇りに思うような人間になるという」。

モニク・ソクハン職員の写真

モニク・ソクハン職員

その思いがきっかけとなり、モニクは難民のために働くことを決意します。しかし、彼女のUNHCRでの最初の仕事は、タイにあるクメール・ルージュの難民キャンプでの保護官としての任務でした。彼女の親戚や友人を殺めた人々こそ、まさにクメール・ルージュだというのに。
 
レバノンのUNHCRで保護官代表補佐として活動しているモニクは、今も答えを探しています。なぜ100万人もの人が命を落とすような状況に至ったのか?なぜ、カンボジア人がカンボジア人を殺めたのか?

※本ページの内容は、世界で最も困難かつ危険な場所で人道支援家として活躍する人々とUNHCRのスポークスパーソンであるメリッサ・フレミングとの対談「Awake at Night」の翻訳です(一部編集)。

音声と原文はこちら(英語)

幸せだった母国カンボジアでの子ども時代。忍び寄る紛争の影

メリッサ・フレミング(MF):モニク、今日はこのインタビューの機会を、子どもの頃の痛ましい人生のある一章を打ち明けてくれてありがとう。子どもの頃のカンボジアの様子を教えてもらえますか?

モニク・ソクハン(MS):とにかく自由だったことを覚えています。走り回って友達と遊んでいましたね。私には、一人のとても身近な存在がいました。それは私のいとこで、私と姉の面倒をよく見てくれました。私の胸の中には、いまだにいつも彼がいます。なぜ彼について話しているかというと、私が何年も後にカンボジアに戻った時に、最初に見つけ出そうとした一人だったからです。けれど、避難時にカンボジアの首都プノンペンで、彼がただ消えてしまったということだけを聞かされて、彼がどのように殺されたのか、わかりません。彼は殺されました。どのように殺され、どこに遺体があったのかもわかりません。思い浮かぶのは、彼の笑顔です。それはとても大切なものです。

MF:当時、あなたはいくつだったのですか?

MS:6歳です。
 
MF:そして彼は?

MS:彼は15歳くらいだったと思います。幸せな瞬間? 私の家族、もちろん、私の両親。私の母は学校を経営し、父は、すべての生徒に教えていました。哲学を教えていましたね。

MF:彼は大学の教授だったのかしら。

モニク・ソクハン職員とメリッサ・フレミングの写真

メリッサ・フレミング(左)、モニク・ソクハン(右)

MS:大学の教授でした。とても尊敬されていましたね。カンボジア人の特別なところは、家族の絆が強いところです。親戚もです。家族が集まって昼食をとり、とても楽しかった時間、当時のカンボジアを覚えています。カンボジアは、とても美しい国です。当時、町では喜びと、そして痛みを感じていました。紛争の影がプノンペンに近づくにつれて、砲撃が聞こえるようになっていたのですから。子どもだったので、何がおきているのか、わかりませんでした。私はまだ、友達と楽しんだり、走り回ったりしている自由な小さな女の子でした。母と一緒に学校に姉を迎えに行ったあの日も、何が起きているのか気づきませんでした。私たちが待っている間にその地域が砲撃を受け、私の姉の通う学校ではありませんでしたが、学校にロケット弾が被弾したのです。私は母に連れられて大きな木の陰に隠れ、たくさんの悲鳴を耳にしました。辺りにいた人たちは、皆、悲鳴をあげていました。私は母にたずねました。『何が起きているの?お姉ちゃん、バレリーはどこにいるの?』と」。ついに姉を見つけるまで、私たちは待ちました。その日は、母がカンボジアを離れる決意をした日でもありました。父は国を離れたくなかったのですが、私の母はとても強い女性で、それが家族にとってよりよいということで決断していました。父がもしも望まないのであれば、母は子どもたちと国を離れると言ったのです。だから最終的には父も同意して。問題は、そのとき国を離れるのが難しくなっていたことでした。母のいとこが国の高官と結婚していたので、そのいとこから2通のパスポートと出国ビザを手に入れることができました。

MF:2通だけですか?

MS:2通だけです。誰が先に国を離れるかということに関して、決めなければなりませんでした。そして、私は一番小さかったので、父と先に国を出ることになりました。私がワンパクで、叫んだりする子どもだったからというものありました。

故郷を遠く離れてパリへ。6歳の少女が異国で独り過ごすということ

メリッサ(MF):その時6歳ですか?

モニク(MS):6歳でした。姉は4つ上の10歳で、私より静かな子どもでした。

MF:ではご両親は、もし何かあれば、彼女には静かにしているように、と言って対処できると思ったんですね。

MS:まさにそうですね。彼女は私より静かな子どもで、一緒にいても難しくなかったですから。だから私は父と出国したのです。私はどこへ行くのか知りませんでした。そして、彼はただ「フランスに旅行に行くんだよ」とだけ言いました。フランスに行ったことがなかったので、どんな国なのか知りませんでした。だけど、私は旅行に行けることに、とても興奮していました。

MF:バカンスですね。

MS:はい……。私はまだ小さな子どもで、父と仲がよかったので、とても気楽でした。フランスに着いて、母と姉がこちらへ来るのに時間がかかるということに気づくまでは。フランスでの最初の一か月は、父が私の面倒を見なければなりませんでした。私たちはパリのサンジェルマンの小さなホテルに落ち着きました。私はその屋根裏のような小さな部屋を、今も覚えています。大きい部屋には泊まることができなかったのです。父はある程度のお金を持っていましたが、サポートを、そして仕事を見つけなければなりませんでした。彼が仕事探しに奔走している間、私は一人でホテルの部屋にいました。

MF:怖かったんじゃないですか?

MS:そうですね。幼いときに感じる孤独でしたね。父が戻ってくるまでそこで待っていて、父は、『心配いらない。戻ってくる』と言いましたが、本当かわかりませんでした。彼は私に小さなクマの人形を買ってくれました。今もその人形を持っています。その人形がどういうわけか私を助けてくれましたね。そして、父は友人のフランス人に私の世話を頼みました。私をその家族のもとに残していったのです。一家には小さな娘がいて、彼女は今、私の親友の一人です。そうして、私はその家族のもとにいました。でも毎晩、父が戻ってくるのを待ちました。知らない人たちの中にいたからです。私は誰も知りませんでした。言葉を知りませんでした。彼らが話していることがわかりませんでした。食べ物も嫌いでした。カンボジア料理はとても特別なもので、フランス料理とは全然違います。だから、慣れるのが少し難しかったのです。彼らは私を学校に入れようとし、私は泣きました。ほかの子どもも泣いていましたが、彼らには母親がいます。両親がいます。私には、誰もいません。だから少し難しかったのです。

MF:それでも学校に通ったのですか?

MS:はい。でも泣き叫んでいた私は、そこからつまみ出されるほかありませんでした。本当に無理だったのです。私はフランス人の家族の大きな家にいて、6か月後に母親と姉が到着するまで、ただそこにとどまっていました。2人が来たことは、とてもうれしかったです。彼らがいつか来るという希望を、私はもう失っていました。私の母親は、国を離れるために闘わなければなりませんでした。そして、彼女は自身の固い決意によって、そうすることに成功しました。また、カンボジアで何が起きているのかを理解し、私の母に自分の2人の娘を連れていくことを頼み、出国ビザをくれた人物のおかげでもありました。それが国を離れることができる唯一の条件だったのです。母親がいて、家族がひとつになること。そのことは、私の人生を変えました。

MF:彼らが到着した日のことを、その時何を感じで、どんなことをしたのか、覚えていますか?

MS:私はただ空港に行って、彼女たちが外に出てくるのを見ていたことを覚えています。うれしくて叫びました。それはとても特別な瞬間でした。そのことは説明できません。とても感情的で。とくに子どもとしては、母だけでなく、ずっと一緒に遊んでいた姉もいるのです。ふたりを見たとき、とてもホッとしました。

MF:お母さんやお姉さんが危険にさらされているかもしれないと考えたことはありましたか?

MS:まだ6歳でしたから、そんなに考えなかったです。ただ、いつも誰かを恋しく思っていただけです。彼らが来たとき。それは、人生でもっとも幸せな瞬間のひとつです。

母国からの悲しい知らせ。「どうして、自分が生き残ったのだろう……」

メリッサ(MF):そのときお父さんはどこにいらっしゃったのでしょう?

カンボジア難民の写真

1978年、隣国タイに逃れたカンボジア難民の子どもたち

モニク(MS):父もそこにいました。彼は事務の仕事を見つけていました。もう一度教壇に立つことは、もちろんできませんでした。それは彼の人生における一つの後悔として残りました。しかし彼は知っていました。私たちはとても厳しい時を経て、家族を支えるために仕事があること自体が、すでにいいことだと思っていました。当時クメール・ルージュが政権を握り、ようやく私たちは正式に難民認定を受けました。そうして、私たちはパリに小さなアパルトマンを見つけることができたので、暮らしはよい方向に向かいはじめていました。すごく小さな住まいでしたが、両親はほかの家族も受け入れていましたから、とても込み合っていましたね。

MF:ご両親が、自分たちが愛していた職業にもはや携わっていないということは、あなたに影響を与えましたか?

MS:まだ幼かったので、あまりわかってはいなかったと思います。でも、外国で親戚とのつながりなしに、カンボジアで彼らに何が起きたのかもわからないまま生きていくことは、とても難しく、奇妙な感じがしたに違いありません。何も知らずにいたこと。それは、その最悪な部分です。当時耳にするカンボジアからの情報は、難民と、あとはカンボジアの国境へ行き、離れ離れになった家族を結び付けようと手紙や薬などを持っていっていたフランス人の神父たちを通したものだけでした。そして、いつだったか、正確には覚えていないのですが、ある日ついにカンボジアから情報を得たのです。両親の兄弟や姉妹が、生き残ることができなかったことを知ったのです。子どものとき、泣いている両親を見るのはつらいものです」。

MF:ご両親は強い存在のはずですものね。

カンボジア難民の写真

1978年、タイの難民キャンプでクメール族の伝統的なダンスを踊る子どもたち

MS:はい。でも、彼らは前に進まなければなりませんでした。子どもがいたのですから。そうして両親は、私たちの生活を可能な限りよりよいものにするために、学業で優秀な成績をおさめられるようしっかりと学ぶよう励ましながら、手を尽くしてくれました。私は集中して学業に取り組み、次第に学校での成績がよくなりました。はじめはフランス語をまったく話すことができませんでしたが、子どものころは学ぶのが早いですよね。私は学校で勉強をするのが好きでしたし、両親に、私のことを自慢に思ってほしかったのです。そして、私たちはある日、吉報を手にするのです。それは1979年のことでした。ベトナムがクメール・ルージュ政権を倒したのです。私たちは、私の叔母、母の下の妹は戦争の中で亡くなってしまったので、母の姉が7人の子どもとともにタイの難民キャンプで生きているという知らせをうけました。私たちは彼らをフランスに呼び寄せるために、できることは何でもしました。叔母は未亡人になっていました。彼女は夫、つまり私の叔父を、クメール・ルージュの政権下で失っていました。軍の大佐だった叔父は、クメール・ルージュに処刑されたのです。

MF:あなたの親族が徐々に姿を現しはじめたのですね。でも、彼らの多くは生き残ることができなかった。

MS:多くは生き残らなかった。

MF:後になって、どのようにして亡くなったか、わかったのですか?

MS:何人かはわかりました。飢え、強制労働、そして処刑。カンボジアのすべての家族がこの大量虐殺の、戦争の、そしてクメール・ルージュ政権の影響を受けています。私だけが影響を受けたわけではないのです。認めなければならないのは、私は幸運だったということです。生き残ることができて、逃れることができて。それは命を落とした多くの人ができなかったことなのです。正直、時々ある気持ちに苛まれることがあります。『どうして、自分が生き残ったのだろう……。ほかの人は死んでしまったのに。何が生死を分けたのだろう』と、思うのです。それは両親がしかるべきタイミングで正しい決断をしたからでした。命を落とした人々のために、私には責任があると思うのです。彼らが誇りに思うような人間になるという。そして今私が携わっていることは、彼らが誇りに思ってくれるようなことだ信じています。それに、学業を終えてカンボジアに戻ることができたことも、とても重要なことだと思うのです。

UNHCRとの出会い。そして再び母国カンボジアへ。「私はただ、助けになりたい」

メリッサ(MF):あなたが家族の中で感じてきた責任をふまえて、大学では何を学ぶことにしたのでしょう。それに関しては、あまり口にしてこなかったでしょうけれど。

モニク(MS):私はいつかカンボジアに戻りたいと思っていました。だから、法律を学びました。また人権についても学ぶことを決めました。覚えているのですが、当時、難民法のある授業は、UNHCRの誰かが来て教えていました。これは本当に、自分自身とつながりの強い分野だわ、私はそんなふうに自分と対話していました。私たちは難民条約について学び、そのとき私は、自分が難民として感じていたことを、まさに反映している文書をはじめて見ることになったのです。「信じられない、私のような経験をした人たちが、人間として扱われるにふさわしい存在であることが認められているなんて」。そう思いました。そうして私は決心し、UNHCRで働きたいと思ったのです。

MF:カンボジアに戻るというあなたの希望について、ご両親と話し合いましたか?そして、それに関して彼らは何か言いましたか?

MS:私の母が最初に国に戻ったんです。さきほどもお伝えしたように、彼女はとても強くて確固たる意志を持った女性なのです。

MF:安全になったら、すぐに帰国されたのですね。

MS:はい、私の祖母がまだ生きていたので。祖父は亡くなっていましたが、私の家族は、なぜだか女性が強いんです。だから、彼女は自分の母親に会いたかった。それで彼女は帰ったのです。そしてパリに戻ってきて、こう私に言ったのです。「どうして私と一緒にカンボジアに来ないの?国がどのようになっているかを見るなら今よ。いつも行きたがっていたのだから。学校には後で戻ればいいわ。一か月だけ、私と一緒に来て」と。休暇旅行でしたね。

MF:もうひとつの旅行ですね。今回は逆方向の。

MS:そうして私は母国カンボジアに戻り、そのまま4年以上とどまりました。やむを得ないことでした。描写しがたい感情ですが、エネルギー、そして貢献しようという決意を感じる母国というものを、たくさん見たくなりました。そして同時に、とても悲しいこともありました。誰が生き延び、誰が生き残ることができなかったのかを知るのですから。それぞれの人生のストーリー。それは、国に戻ったときに感じる生き残ったということへの罪の意識で、こんなふうに言われることもあったのです。「私たちが味わったことを、あなたは味わっていない。飢えも殺戮も、あなたは経験していない」と。

MF:そのように言われたことは、あなたにどんな影響を及ぼしましたか?

MS:「あなたは正しいわ、あなたは私よりもずっとずっと苦しんだ。でも、そのことで謝らなければならないの?国を離れることは、自分で決めたわけではないの。私はただ、助けになりたい。あなたを助けるために、何ができるかしら」。私は彼らにそう言いました。

カンボジアからタイの難民キャンプへ。
「再び去りたくはないの。この国が私を必要としている時に」

メリッサ(MF):仕事はどこで見つけたのでしょう?また、そこでの最初の仕事はどんなものでしたか?

モニク(MS):私はとても幸運でした。国連人権センターに加わることができたのですから。そこでの4年間はとても貴重な経験です。当時カンボジアの路上には、多くの子どもたちが両親を失っていたので、手足のないたくさんの人、孤児、さ迷い歩いている子どもがたくさんいました。やらなければならないことがたくさんある、そう感じました。殺人があり、何の理由もなく殺される、そんなことが依然として起きていました。

MF:あなたの両親やお姉さんは、その時パリに戻っていたのですか?

MS:はい、カンボジアにいたのは私だけです。

MF:彼らは戻ってきたくなかったのですか?

MS:彼らは私にパリに戻ってくるように言いました。私のことが心配だったのです。国の状況を心配して、「どうして国にとどまるの?」と、聞いてきましたね。

MF:それに何と答えたんですか?

MS:「ここにとどまりたい。一度は去って、再び去りたくはないの。この国が私を必要としている時に」。私はそう答えました。そして言いました。「わかるでしょ、これは私の務めなの。私の選択、そして私の務めなの」と。

MF:それであなたはUNHCRで働き始めた、実際にはタイで。カンボジアからタイのUNHCRに移ったんですよね。そして、あなたの親戚を殺めた人たちを保護する役割を担うことになった。そのことについて教えてもらえますか?その状況にどうやって対処したのでしょう。

MS:私はいつも難民となった人たちのために働きたかった。だから、UNHCRから難民キャンプで活動し、タイに行くというこのオファーをもらったとき、とても興奮していました。それから彼らは言いました。「知っておいてもらう必要があるのは、そこはクメール・ルージュのキャンプだということです。クメール・ルージュによって管理されているのです」。一瞬のためらいの後、私は「行きます」と答えました。

MF:なぜそのような決断を?

MS:私は理解したかったのです。そして、彼らと話がしたかった。私は両親のおかげでクメール語を話します。それは本当に私の関心からくるものでした。なぜって?彼らは、起きたことを、どのように説明しうるでしょうか。それは私自身に対する挑戦でもあった、といいましょうか。だから、私がキャンプに行ったとき、銃を持った男など、ひどい人間と直面するだろうと思っていました。というか、キャンプには制服を着た男性たちがいましたが、銃は持っていませんでした。たくさんの女性、子どもたちを目にしました。私は彼らに話しかけ始めました、率直に、誠実に。私が、なぜここにいるのかということについて。私はUNHCRで働いていると伝え、シェルターに通いながら、ただ毎日彼らのところに話をしに行きました。何か食べるものをくれることもありました。私は彼らと対話を始めました。彼らを理解しようとしながら、こう伝えるようにしながら。「いいですか、私はあなたをジャッジするために、ここにいるわけではないのです。サポートするためにここにいるのです。だって、あなたは私みたいだから。あなたは犠牲者だから。戦争があって、当時あなたにも、逃れてこなければならない理由があったのだから」って。

カンボジア帰還民の写真

1992年、カンボジアに帰還し、支援を受ける人々

でも、その中には、私の家族を含め、人々を殺した人間がいることも、私はわかっていました。そのことに関して、基本的に私は彼らに聞くようにしていました。ある人は否定し、多くの人はこう答えました。「選択の余地など、なかったのです。私たちは幹部に従わなければならなかったのです。私たちは、あなたのように犠牲者なのです。自分たちのために決断したのではなく、幹部がやるように言うことを遂行しなければならなかったのですから。そうでなければ、私たちだって殺されていたでしょう」。
それで私は当時、彼らの希望明らかにし、ニーズを満たせるよう試みながら、保護官の仕事をしました。多くの人が口を揃えて言っていたのは「自分たちの故郷の村に戻りたい」ということでした。20年以上経っていました。最期の紛争まで、人々はクメール・ルージュによって連れていかれ、最後には国境まで行きつきました。
彼らがカンボジアに帰る日が来たならば、どこに戻るかは、彼らが自由に選ぶということが重要だと、私はUNHCRに伝えました。人口をコントロールすることは大きな意味を持つので、それは簡単なことではありませんでした。私はまた、クメール・ルージュの幹部と交渉もしなければなりませんでした。その中の一人には、なぜだか気に入られていたと思います。

MF:それは恋愛感情ですか?

MS:違います。

MF:ただ、あなたに対して情のようなものがわいていた。

MS:まさにそうです。私が誰であり、なぜここにいるのか、ジャッジするためにいるわけではないと、私は彼に伝えていましたので。そうして、私たちは絆を築きました。でも彼はクメール・ルージュの幹部でしたから、それは口にしにくいことでした。実際、彼は私に重要な情報を教えてくれて。彼らは政府と和平交渉をしていました。私たちはその情報を掴んでいませんでした。そのことを報告してくれた人物こそ彼で、彼は私にこう言いました。
「いいかい、もうすぐ私たちは国に戻る。そのことを君の仲間に伝えられるかい?」
「まだ砲撃が続いているのにどうやって?」

畑を耕すカンボジア帰還民の写真

1992年、母国カンボジアで田植えをする人々

「本当なんだ。だから準備してほしい。この種類のお米が栽培するために必要で、田畑を耕すためにこういう耕具が必要なんだ。このメッセージを確実にUNHCR、きみサイドの人たちに伝えてほしい」。
これが、私がしたことです。「そんなことは、ありえないし、これは紛争で和平交渉なんてない」。私たちははじめ、そう言っていました。でも数日後には、私たちは荷物をまとめている難民がいるのを目にしました。人々はテントを持ち出し、トラックに乗り込んで、何人かがそこを後にしました。難民だった人たちは、数時間のうちに去っていったのです。それは驚くべきことでした。そこは、統制がとれた1万人以上の人たちのキャンプだったのだと思います。ー荷物をまとめて、去っていくにも。「国に戻っていく人たちに、自発的な帰還であるという署名を忘れずにしてもらうように」。保護官として、このように言われます。だから私は、国境のところでそれを試みて……。

MF:単独で1万人に一人ひとり署名をさせるのですか?それは不可能でしょう。

MS:はい。彼らは去り、キャンプはあっという間に空っぽになりました。UNHCRは私に人々が向かった先に出向くように言い、私は言いました。「わかりました。彼らに帯同し、向こう側に行きましょう」。だから、私はクメール・ルージュの拠点に入ることができた最初の人道支援団体の人間だったと思うのです。私は難民だった人々に会いました。それは、難民が故郷に帰還するときにUNHCRが行うあらゆる活動でした。

家族を殺めた人たちを守るということ。
「日々のめぐり合わせの中で人に接している時、
そのようなことはもはや考えなくなります」

メリッサ(MF):クメール・ルージュのメンバーや関係している人々がカンボジアに戻り再定住するにあたって手助けすることに関して、複雑な思いはありましたか?

モニク・ソクハン職員の写真

1999年、カンボジアで。同国に戻った人々が問題なく再定住できるようモニタリングを担当

モニク(MS):すでに何の問題はありませんでした。疑いや複雑な感情は、キャンプで働き始めた当初はありました。でも、すぐにそこにいる女性や子どもたちとのつながりを感じました。私はキャンプで、彼らと毎日一緒にいました。彼らの保護によく取り組んでいたと思います。希望をもっていました。彼らもとても難しい時期を経験して。地雷が周囲に埋まっていたのですから、子どもたちは特にそうでした。父親と一緒に森の中に入っていったある子どものことを、とくによく覚えています。彼は父親の目の前で地雷を踏んだのです。町の病院に運ばれていき、私は仕事の後に病院を訪ね、彼に会おうとしました。彼はもう誰とも口をきこうとしませんでした。彼はこんなふうに、何かとてもトラウマ的なものを見た時のように表情がありませんでした。そうして、私は毎日キャンプでの仕事の後に彼のもとへ行き、会うようにしていました―何週間もの間。そして、それがもっとも報われたと思える瞬間のひとつが、彼が再び笑顔を取り戻した時です。自分自身がきっと何か良いことに携わっていると感じた時でした。気持ちのいいものでした。奇妙な感情でした。なぜなら、私は、とても悪いことをした人たちもいることを知っていたからです。でも、日々のめぐり合わせの中で人に接している時、ある時点で、そのようなことは、もはや考えなくなります。

MF:多くのものを犠牲にしていたように見えます。あなた自身のほとんどすべてをこのオペレーションに捧げていた。あなた自身のことはどうだったのですか?あなたの私生活という面では。友人はいたのでしょうか。

MS:両親には、クメール・ルージュのキャンプで働いているということを伝えていませんでした。

MF:これまでに伝えたことは?

MS:ありません。彼らはこのことを知りません。当時も知りませんでしたし、私の母親は今も知りません。私の姉、兄弟たちも知りませんでした。心配をかけたくないので、ほとんどいつも、何をしているのかを正確には伝えないのです。私生活ですか?そのような状況下で働いている時、もう同僚を除いて友達はいないですし、誰かとつきあったりということもできないです。でも、大丈夫です。何かとても大切なことをしているという強い信念がありますから。だから、その時そうしていたことは、ある種とても自然なことなのです。

大切なのは、ただ普通の日々を望んでいる人たちのために最善を尽くすこと

メリッサ(MF):その後のキャリアでは、次に何が起きたのでしょう?

モニク(MS):タイとカンボジアでの活動の後、私は西ティモールに行き、そしてモンゴルに行きました。その後は、どこでしたっけ……。ボスニアに約3年間ですね。そのあと香港のヘッドオフィスに移りました。

MF:たぶん、紛争地帯でない場所へのはじめての赴任ですね。街の中、戦争の気配のない喧騒の街の中。

MS:まさにそうですね。平和の中で眠りにつくことができるのは、はじめてのことでした。安全で、常に用心していなくてもいいという感じでしたね。

MF:楽しんだのでしょう。

モニク・ソクハン職員の写真

2007年、カンボジア特別法廷のために目撃者にインタビューを行った

MS:はい、とても。あとジュネーブに来るときはいつでも湖での時間を楽しみましたね。とても平和的ですから。すごくいいですよね。私は香港で2~3年働きました。その後、香港にいたとき、ある日クメール・ルージュの専門家の友人から電話があったんです。彼は私に言いました。「いいかいモニク、ついにクメール・ルージュの最高幹部の犯罪捜査と訴追のために、カンボジア特別法廷が設立されることになった。君に仲間に加わってほしいのだけれど」と。「なんでことなの……私はUNHCRの職員として香港にいて、ここが好きで……」なんて、初めは思って。でも、正直に言えば、ためらったのはほんの数秒でした。私にとっては、カンボジアで起きたことをもっと明らかにしようとする、またとない機会でしたから。だから私は、捜査員として加わったのです。私は2年ほどそこに所属し、100万人以上の人たちが命を落とすようなあのような状況にどのようにして至ったのかということを理解しようと試み、2年ほどそこに留まりました。なぜカンボジア人がカンボジア人を殺めることになったのか。なぜその時期、私の家族の多くが殺されたのか。

MF:2年後、それに答えることはできたのでしょうか?

MS:一部に関してはそうですね。わかりきったことですが、大量虐殺というものを把握・理解するというのは、とても困難です。人々を殺す命令が、どこから下されたのかということはわかりました。そしてそれがどのように伝達され、大量虐殺に行きついたのかも。でも、いまだに理解ができないのは、たとえば、どうして知識人や文化人、少数民族、僧侶を殺すという政策を、ただ新たな社会をつくるためだけにとったのかです。私にとって、それを理解するのは、いまだにとても困難なことです。そんな中よかったと思えるのは、生き残ったクメール・ルージュの人たちと話すことができたこと、また殺戮を実行した人たちとも話すことができたことです。そして、彼らのものの見方を理解しようと試みたことでした。どんな行為も許すのではなく、少なくとも彼らの見方で理解すること。私にとってそれは、重要なことでした。きっと私自身のストーリーと折り合いをつけることができるという意味でも重要でした。また、何人かのクメール・ルージュの幹部の逮捕と起訴を目撃できる機会もありました。そういったことを受け入れることは、私にとってとても重要だったのです。この裁判に多くの批判があることは知っています。でも、30年後であっても、私にとってそれを見ることはとても重要な意味を持っていました。

MF:ある程度の公正さはあったのでしょうか。

MS:ある程度のものは。クメール族は仏教徒であり、とてもたくましいのです。この世に公正さがないとしても、生まれ変わって次に生きる世には公正さがある、と信じているんです。

MF:あなたもそれを信じているのですか?

MS:信じたいと思っています。

MF:あなたはとてもたくましい人に違いないですね。あなた自身の助けとなる趣味や瞑想、スポーツのような、何か取り組んでいるものはありますか?

MS:これまでの経験が私を強くし、今の私をつくったと思っています。趣味もありますよ。たとえば、考古学をやっているんです。

MF:考古学?

MS:はい! 掘っているんですよ。趣味はもちろんありますが、でも重要なのは、家族、友達、同僚、私の周りにいる人たちだと思います。

MF:人間による同じ人間への最悪の残忍な行為を目撃しただけでなく、乗り切った人たちを知っているわけですからね。あなたに何か、希望を与えることはありますか?

MS:はい。そのような人たちはとても強い人間で、とてもたくましいと思います。そしてどうにか、人生を生きている。思うのですが、同じような過ちを、再び起こさないようにすることは、私たちの責任だとも思うのです。今も私は、人間に希望を持っています。そうでなければ、この仕事に就いていないでしょう。

MF:夜眠りにつくとき、あなたの眠りを妨げるものはありますか?あるいは、夜中にあなたを眠りから覚ますものはありますか?

モニク・ソクハン職員の写真

2019年、レバノンでシリア難民の女性と言葉を交わすモニク

MS:何年もの間、砲撃や爆撃の音がそれでした。まだそういう悪夢をみていたのです。その後、そういう夢をみることはなくなりました。今気にかかるのは、私たちの助けを必要としている人が世の中にいるということですね―私がずっと小さかったときに、助けを必要としていたように。そしてこれは、私たちが人道支援に関わる者として行っていることの中で、重要なことだと思うのです。そのような人々のための解決策を見つけるために最善を尽くすこと。人々は、あなたや私と同じように、ただ普通の日々を望んでいるだけなのですから。そして、それに値する人たちなのです。
 
MF:あなたの人生の物語をシェアしてくれて、どうもありがとうございました。すごく、感動しました。そしてあなたの仕事に刺激を受けました。

MS:お招きいただき、どうもありがとうございました。

MF:ありがとうございました。