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ポーランドの小さな村、オシフィエンチムで
(後半)

東欧に位置するポーランドの古都クラクフから、60kmのところに位置する村オシフィエンチム。この小さな村を、毎年世界中から多くの人が訪れ、2019年の訪問者は過去最多の230万人を記録した。村はかつて、ドイツ語でアウシュヴィッツと呼ばれていた。第二次世界大戦中、ポーランド人をはじめとするドイツ占領下のヨーロッパでナチスに抗った人々やユダヤ人、多くの人がアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に送られ、過酷な環境下の強制的労働と飢えのなかで命を落とした。収容所の建物は現在博物館として公開されている。第二次世界大戦の終結から75年を迎える今年は、この強制収容所が解放されてから75年を数える年でもある。収容されていた生還者が、かつてはこの場所で歴史を伝えていた。しかし、今は300名超のガイド全員が戦争を経験していない。アジア人で唯一の公式ガイドとして23年間、この場所で歴史を伝え続けている中谷剛さんに戦争を体験していない世代が戦争や歴史を伝えることの意味、今、私たち一人ひとりができることのヒントを伺ったインタビュー前編に続き、後編では、アウシュヴィッツの生還者の方々がどのように過去と向き合い、また各国や私たち一人ひとりは、どのように過去と向き合いながら未来を築いていくことができるのか、お話を伺った。

「エネルギーのある人には、頑張ってほしい。当事者意識を持って、一人ひとりができることを」
>> ポーランド国立アウシュヴィッツ博物館の公認ガイド 中谷剛さんインタビュー前半はこちら


忘れたい。でも、忘れろと言われたくはない。
忘れえぬ記憶を語ることで、こころがたどり着く場所

アウシュヴィッツを解放したソビエト赤軍が撮った写真。解放日から数日経ったときの様子といわれている

― 生還者の方がこの場所でガイドをしたり、証言をしたりということには、つらい記憶が呼び起こされるということも伴っていたと思います。生還者の方がそうまでして伝えるのはどうしてだったと思いますか?ここで起きたことを二度と起こさないように、という大前提はもちろんあるのですが。

生還者の方と息子さんが証言会に一緒に来てくれたことがあって、日本人の前で体験談を話すのに、私が通訳で話しているうちに、途中で詰まったんですよね。話せなくなって、私はかわいそうだと思って、「もうこれ以上はいいです、本当にありがとうございました」と言ったら、隣の息子さんが「親父、もっと話せよ、なんで話さないんだ」って言うわけ。え、と思って。息子さんが後で言うには、「親父はここで話をすることで、みずからを解放しているんです」と。トラウマの解消というか、話す場が彼にとっては必要だと。ところが、実際に生還者の話を聞きたいという人がいる一方で、「そんなつらい話もうやめて、次の人生を迎えなさいよ」という人も、案外多かったりする。そうすると、生還者の方は、「自分の経験は何だったんだろう」と、すごく落ち込むらしい。励ますために、「もうそんな歴史は忘れて、次の人生に向かいなさい」と言われる方が、かえって助かった人たちを傷つける場合もある。

― 生還者の方は、いろいろな思いを抱えながらもお話をしてくださっていると思いますが、中谷さんがうかがったお話の中で、どんなことが一番記憶に残っていますか。

話や言葉というよりは、アウシュヴィッツの生還者っていうのは、不思議なことに、大変なことを話しながらも途中でニコッと笑ったりするんですよ。ちょっと冗談を入れてあげようかなっていう、やさしさでしょうか。大変な歴史を伝えているんだけど、一番自分が大変なことだってわかっているわけでしょう。そうすると相手にそれを全部負わせないって考えるのか、時々、ちょっとした冗談めいたことを言ったりして。なんでこんな大変な話をしているのに、そんなちょっとした冗談を入れるの、という感じでそれがすごく魅力的で。そういうところは、僕のモチベーションにもなっています。

表向きは診療所として使われていた建物のひとつは、「ガス室の待合室」として知られていた。ここで数々の人体実験が行われ、多くの人が命を落とした。「外科」の文字の下に、立ち入り禁止と書かれている

― それはみなさんにわりと共通する部分だったりするのでしょうか?

特に、歴史を順序だてて話せるようなタイプの人は、そのくらい距離感を持って話せる人が多くって。なんかこう、時々ポッと冗談を言うんです。あぁこうだったなって。涙を流して泣き崩れて話をするような感じではなくて。もちろん自分の家族のことに話が及ぶと当然そういった雰囲気にはなるんですけれども、それでもまた気分を取り直して話を続ける。

― 昨年末メルケルさんが来たとのことでしたが、そのことに関して、生還者の方の反応はどのようなものだったのでしょう?

ポーランド人の生還者の方の証言会で、ある人が「メルケルさんが来たことを、どう思いますか?」って質問したんですけど、ある生還者の方は「遅すぎるよ」って。私からすると、6000万ユーロ(約72億円)も寄付金を置いていくなんてたいしたものだとなるのに。そういうのを聞くだけでも、そうか、これだけ悲惨な経験をした人は、いくらドイツが頑張ってもほめないんだな、と。でも、これ以上ちょっと文句を言うのはやめておこうかな、という雰囲気もあります。「ドイツは金なんか持ってきやがってまったく意味がないよな」とは言わないわけです。「ちょっと遅いなメルケルさんは」と、皮肉を言いはしても、当時のドイツ人は違うわけだから、と優しさも発揮するわけです。これ以上、責めるのはやめておこうかな、という雰囲気が保たれている。ドイツの教育の仕方や政治家の言動、そしてメルケルさんの行動とかもふまえて。

アウシュヴィッツと出会い、学んだこと
ポーランドの強み「振り子を戻す力」とは

ワルシャワの街に残るゲットーの跡。ここから多くのユダヤ人がワルシャワ北東部の強制収容所トレブリンカに送られた

― 中谷さんがアウシュヴィッツを知ったきっかけは何だったんでしょう。

1987年、二十歳の時に旅人としてここに来たんですが、実はポーランドには興味がなかったんです。でも、アウシュヴィッツには行っとこうと思って、それは小学校の時に講演に来てくれた学者さんが、アウシュヴィッツの話をしてくれたからで。「ヨーロッパでは、よそ者だっていうだけで数百万人を殺したような過去がある」と聞いて、それが妙に頭に残ったんです。僕は神戸の生まれで、栃木に親の転勤で引っ越して、そこで転校生として学校に通ったときに、なんとなくよそ者感を感じて。言葉も違うし。それで、旅行するときに、あの学者さんが言った、ポーランドにアウシュヴィッツに、ちょっと行ってみようかなと思ったんです。

― ポーランドには興味がなかった、というのはなんだかおもしろいですね。その後すぐにガイドになったのでしょうか?

いえ、旅から戻って、大学卒業後数年日本で働いてからもう一度ポーランドに戻って。旅行の時は、どちらかというとソビエトに興味があって。シベリア鉄道を旅するのが大きな目的でした。正直ポーランドは二の次だった。シベリア鉄道で出会った人たちは、みんな親切で日本語が話せて。社会主義だった当時は泊まる場所も乗る列車も、すべて国営の旅行会社に決められて。列車で日本語が話せる人に会えるのは、最初はうれしかったんですが、次から次に日本語のできる人がいるって変でしょ。ポーランドを気に入った理由はまさにそこで、ロシアに比べて制約が少なかった。これだけ自由なんだ、ホテルもどこに泊まってもいいんだって。ポーランド人とも、案外こう自由に話すこともできて。ただ社会主義下でしたから、カフェで会った大学生がコソっと、「日本はいいな自由で」とか言うわけです。それで、ポーランドが89年に民主化して、もう一度来たのは、その時コソコソと話していたポーランド人たちが自由を手にしてどうしているだろう、という単純な思いがあって。

当時、ポーランドはまだ混乱していて、普通だったらそんなに簡単にくれないのに、結婚もしてなくて仕事もなかったのに、半年くらい県庁に通ったら、将来に期待してるってことで、永住許可証みたいなのをくれて。

― 大らかな時代ですね。2015年のヨーロッパ危機の際に東欧で難民の受け入れが進んでいたら、また状況は変わっていたのではないかと思うのですが、それだけ大らかだった国が2015年にはそういった方向に舵を切らなかったのは、どのような背景が関係していると思いますか?

裕福な西欧諸国とは違って、30年前までは社会主義であって、みんな一生懸命働いて頑張ってきたわけで、だから、ちょっと一息したいって感じで。ここまで築いたものを失いたくないっていうような気持があったのかもしれません。

ポーランドが社会主義の時に困っていた時には、案外ポーランド人も難民として世界に受け入れられて、随分助けられて。でも、それとこれとは別だ、という感じで扱う人が一部にいるのも確かで。ただポーランド人と話をしてみると、反難民、反移民という人たちが多数派というわけはないんですよね。私が町のお店に行くと、急に親切にされたり。私たちはニュースでいわれているようなポーランド人じゃありませんよ、みたいな感じで(笑)。
社会全体が排他的とかではないです。

― 一部の政党とか一部の団体が排他的な考えを持っていると、それが社会の中で急に勢いづいて、難民や移民の排斥につながるということもあると思いますが、そういったことを感じることはありますか?

一時期、そういう機運が高まりました。でも時間が経つと、この人たちはバランスがいいんでしょうね。苦労してきたせいか。あまりにズレだすと、振り子を戻そうとする力があって、たいしたものだなと思う。たとえば民主化をするにあたって、世界では中東も含めて、今でも苦労して、血が流れて。チュニジアでも最近のシリアでも。ポーランドが1989年の民主化の時に流血せずに社会主義から民主化した時の様子を観察していると、円卓会議といって、敵と味方が同じ机に座って、社会主義のリーダーと民主主義のリーダーが合意するってわけですよ。これができる国民っていうか民族は、歴史上あまりいなくて。要するにふつうは粛清するわけですよね。でもここはしなかった。そのことで不満も残っているものの、結果的に見るとそれがポーランド人全体にとっては利益をもたらして、ひとつのモデルとして、今民主化しようとしている国々も参考にしはじめた。

それが今も影響していて、難民に関しても難民の受け入れに積極的な人と消極的な人の間で、確かに難民の受け入れはするべきだけれども、なんでもなんでも受け入れてしまったら、やっぱり混乱するだろうって意見がでたり、さすがに難民受け入れに積極的でない人もあまりにやりすぎていくと、やっぱり難民を助けるためにお金を集めようって言いだしたり、やっぱりバランスをとろうとするんです。

― 健全というか、個人個人の考え方、発言する権利と意志、心の自由さのようなものを感じます。

はい。みんなで話をしていても、日本人だとたいてい安心して話ができる常識というものがあるでしょ。ポーランドはその常識が、広いというのかな。同じテーブルにすごい変な人もいる。そこにすごく頭のいい人もいたり。両者が一緒に同じテーブルの中にいる。とても裕福な人とすごく貧しい人、という感じじゃなくって、なんかこう、生き方でいろいろな人がいるわけ。生き方として、こんな人もいい、あんな人もいていい、今はこの人がエリートかもしれないけれど、時代が変わればこのとんでもないことを言っている人も、エリートかもしれないという感じがある。だからちょっと安心できるというか、小さな枠から外れちゃまずいってことと比べると、それはそれでいいんじゃないかと思います。社会からはみ出るような人を出してしまうと、活性化できないと思いますから。

― ガイドで、ドイツがここまでしたのも民主主義で選んだ結果であり、民主主義では少数派の存在が大事で、傍観者が多ければ、民主主義だって恐ろしいという話もありました。ポーランドは同じテーブルで幅広い意見が飛び出して、それが社会の均衡を保っていて、この時代には強みですね。日本には、多数派でいる方が安心というある種の空気感があるように思います。

私たちの世代がそういうものを作ってしまったかもしれません。そういう社会を。一本のレールの上をみんなで走って、経済を発展させていこう、って。それは別に間違いではなかったんですけれども、その弊害はもしかしたら出ているかもしれなくて。

あと、ここで生活すると最初は失敗とかもあるわけです。日本人としては、すぐに失格になるんじゃないかな、なんて、思うんですが、一応、ここにいさせてくれるわけですよ。それこそ、なんで日本人がガイドなんかやるんだって、いじめられたわけではないけれども、うちの博物館の幹部も最初は採用することを渋ったり。なんか国際的に問題になるんじゃないかって、こんなやつを雇って、って。それでも我慢して続けていると、その批判された分、逆に3倍返しで評価してくれるようなところがあるわけです。ああそうか、じっくり見てるんだな、と。どのくらい抵抗して頑張るのかって。頑張ると、その3倍返しくらいで認めてくれる社会があるんですよね。これが日本にはよく考えるとなかったかもしれない。そこは本当に、日本が変わっていかないといけない部分ですよね。

― 今大変な人は頑張らなくていい、元気のある人が現状を変えるために何かを始めよう、とか、物事や人をただ批判的に見るのではなく、なぜそうなったのかこれまでの社会のあゆみを省みたり。中谷さんのお話を伺っていると、いま行きづまった社会に生きる人への温かい視線を感じます。

ガイド中の中谷さん。貨車から降ろされる人々の写真の前で

私にとって、この場所にいることのメリットがもしもあったとすれば、そういった考え方をするようになったことかもしれなくて、もしもそういった部分があるとしたら、それはこの場所が教えてくれたのかもしれないなんて思うんです。

外国人としてこんなところに住むと、身構えて、けっこうきつい顔付きをしていたみたいなんです。最初は背負いこんでしまって、生存者の方の話を聞けば聞くほどちゃんと伝えなくてはいけないって。聞いてもらえないと腹が立って、これでもかって厳しくいうわけですよね。こんな大変なことだったんですよって、力を入れれば入れるほど、失敗するんですけど、若いころはでもそうなって。僕の案内は、「怖かった」「怒られてるような気がした」って言われるようなことも多かったです。でも、今は違う方法で伝えるようになったと思います。

― どんな部分が変わってきたと思いますか?

年齢、経験がもたらすもの、それから世界情勢がかわってくると社会の価値観も変わってくるわけですから、当然説明の仕方もそれに適応して変わってくるわけです。最近年をとって変わり始めたのは、これが正しいからやろうというのではなく、社会はいつも変わっている、いつも問題があって、それに対して正面から向かいあって何とか解決していける、そして前に進んでいく。その繰り返しだと思うんですよ。時代によって問題は変わってくる、でも問題のないときはない。常に問題があるんですけれども、それを避けて逃げていくときには、一番怖いわけですよ。常に向かい合って、こう向かい合って解決していくことの繰り返し。でも答えはいつも同じではなくって、その当時の状況に応じていつも適応しなければならないわけですよ。今が一番悪いとか、昔はよかったとか、もちろん波はありますよ、でも今苦労していることが将来のよいことに対する糧になっているのかもしれないし。

私たちって、長いスパンで見るとそんなに変わっていないように見えますけれども、それぞれの瞬間で常に変化を求めて、それで活性化しているんじゃないですか?それをやめたときが、やっぱり人間として退化していくんじゃないかと思うんです。

プロフィール
中谷剛(なかたに・たけし)

1966年兵庫県生まれ。1991年よりポーランドに居住し、1997年ポーランド国立アウシュヴィッツ博物館の公認ガイドの資格を取得。現在、同博物館で唯一の日本人ガイドを務める。通訳・翻訳家。著書に『ホロコーストを次世代に伝える』(岩波ブックレット)がある。

「エネルギーのある人には、頑張ってほしい。当事者意識を持って、一人ひとりができることを」
>> ポーランド国立アウシュヴィッツ博物館の公認ガイド 中谷剛さんインタビュー前半はこちら

写真/文責:国連UNHCR協会

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