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支援の現場から/みんなの声

UNHCRパキスタン・ペシャワール事務所
シニア・オペレーション・コーディネーター
税田芳三 (さいたよしみ)

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パキスタン洪水被災地で支援活動を行う税田職員

1986年からUNHCR職員として、ソマリア、スリランカ、カンボジア、旧ユーゴスラビアなどで勤務し、現在、パキスタンで主に洪水の被災者支援に従事している税田職員が、日本に一時帰国した際に、お話をお聞きしました。

Q1 パキスタン大洪水(2010年)はどのような状況でしたか?

大洪水が発生した2010年7月、私は他の国連機関やNGOの人たちに着任の挨拶をするために首都イスラマバードへ出かけていました。その後、道路が冠水したため丸2日ペシャワールに戻れませんでした。インダス川の洪水は日本とは違い、水がじわじわと横に広がっていき、河口地帯まで広がるのに2週間ぐらいかかります。

 

壊滅的な打撃をうけたアザヘルキャンプ

壊滅的な打撃をうけたアザヘルキャンプ

北部の山岳地帯から始まった洪水でスワット郡の橋は全部流されました。私が救援活動に入ったカイバル・パシュトゥーン・クワ州は2005年に大地震があったところと重なっています。難民キャンプのひとつ、アザヘル・キャンプへ行くと、泥作りの家々はすべて崩壊して泥のかたまりになっていました。このあたりは、30年の間、洪水被害がなかったところですし、難民キャンプは低地にあったので被害が大きくなったのでしょう。暮らしていた5000家族は離散しており、ほとんど行方がわかりませんでした。

 

洪水発生から3ヶ月間で10万世帯に救援物資を支給

洪水発生から3ヶ月間で10万世帯に救援物資を支給

被災地域でのUNHCRの主な緊急援助活動は救援物資の支給です。一家族当たり、テント1張 、毛布6枚、ビニールシート4枚、水汲み容器3つ、バケツ2つ、身体を横たえるマット4枚などです。寒気が厳しくなる11月には、厳冬対策として、さらに毛布、ビニールシート、布団、セーター、ストーブ、などを追加支給しました。洪水の救援活動を開始してから2週間後に、まず500家族くらいが戻ってきました。

Q2 パキスタンに赴任する前にも、長年、各地で人道援助活動に携わっていますが、そのきっかけは?

父親が無医村で医師をやっていた影響で人道支援に関心を持っていたのだと思います。でも、直接のきっかけは21歳の時に突然見舞われたてんかん発作でした。失望から放浪の旅を重ね、そこで知り合った途上国の人々との出会いが人生に希望を与えてくれました。「平和な日本に生まれたのだから何らかの形で恩返しをしなきゃ」という単純な思いが私の中に芽生えました。ちょうどそんな時、1979年の話ですが、カンボジア難民の記事を新聞で見つけました。100万人以上の人々が命からがらタイに逃げてきている。2年前に私が訪れた村の名前もそこにありました。「何とかしなきゃ」という思いでタイに飛び、そこで知り合った仲間と共に、1980年にNGOを立ち上げました。当時は日本でもまたベトナム戦争の記憶が新しく、募金活動などにも強い手ごたえを感じました。しかし、時が経つと、人々の関心は薄れ寄付は途絶えてしまいました。世界には援助を待つ人々がまだまだたくさんいるのに・・・。

 

アントニオ・グテーレス難民高等弁務官と

アントニオ・グテーレス難民高等弁務官と

その後、中東を訪ねる機会があったり、イギリスで勉強をしていた時に日本政府のソマリア難民援助の話があり、それがきっかけでソマリアにNGOの事務所を構えることができました。NGOでの経験を活かして、もっと大きな援助活動に携わりたくなり、1986年、UNHCRに入りました。ソマリア、スリランカ、カンボジア、旧ユーゴスラビア、ジュネーブ本部などで勤務しました。UNHCRは、上からあそこへ行けと一方的に辞令が出るわけではありません。職員が希望する赴任地を選んで手を挙げるのです。ですから、私が今、パキスタンで活動するのは、私の選択です。危険な地域であることはわかっていますが、個人的に、世界の平和にはこの地域の安定が不可欠だと信じています。そのために微力ですが少しでも役に立てれば、と思っているのです。

Q3 人道援助は危険と隣り合わせの部分がありますが、実際に危険な目にあったことは?

厚い塀と警官に守られる事務所

厚い塀と警官に守られる事務所

ペシャワールは世界でもっとも危険な町というありがたくないレッテルを貼られてしまったところです。2009年には職員2名が命を落としました。複雑な社会で、いろいろな武力勢力が入り乱れ、誰が誰を狙っているのかわからないのが現状です。UNHCRの現地事務所には、他の国連機関も間借りしており、関係者150人が60人の警察官と治安警備の人たちに守られ、事務所は厚さ1メートルの二重の塀に囲まれています。常に警官に守られて行動しなければなりませんから、ちょっと床屋や買い物にでかけるというわけにはいきません。ですから、なかなか現地の人々と交流することができないのが残念です。国連の規定により、この地域では、防弾装備のある四輪駆動車での移動が義務付けられています。しかし、洪水の後は、ぬかるんだところが多く、5トン近くある防弾装備車両では身動きがとれないことがあり、普通の四輪駆動車で移動せざるを得ませんでした。

 

ぬかるみにはまった防弾車

ぬかるみにはまった防弾車

危険度が高い地域には家族の同伴を認めないという制度ができる以前のことですが、私が初めてソマリアに赴任した1986年当時、家族もずいぶん危険な目にあいました。スリランカでは、銃撃戦に巻き込まれたことがあります。銃弾が当たらないように、窓から頭が出ないように腰をかがめて、家の中を移動しなければならない状態で、子どもを抱えてベッドの下で、無線機を片手にSOSを流したこともありました。

Q4 危険にもかかわらず、人道援助を続ける理由は?

避難民たちの声に耳を傾ける

避難民たちの声に耳を傾ける

家族まで危険にさらしていいのだろうかと悩み、一度はUNHCRを辞めたこともありました。復職して赴任したカンボジアで、故デ・メロ氏と一緒に仕事をする幸運に恵まれました。彼の行動力、情熱に動かされました。2003年、バグダッド国連本部爆破事件で亡くなった、当時国連事務総長特別代表であった彼の死は今でも信じられない気持ちのままでいます。今こうして活動を続けているのは、きっと彼や素晴らしい同僚との出会いがあったことが大きいですね。UNHCRのような過酷な現場での活動を続けていると、仲間の人間性が見えてきます。人間的な絆で結ばれます。仕事を離れても付き合いはずっと続きます。仲間の存在。これもUNHCRで働くモチベーションになっています。

 

避難生活を送る人々

避難生活を送る人々

難民たちから「認められる」ことも仕事の原動力になるのはもちろんのことです。イスラム教徒がほとんどのパキスタンの難民キャンプでは、若い女性たちは姿を見せません。女性は誰もがブルカをまとい目の部分以外はすべてを隠しています。しかし、活動を続けるうちに、ビニールシートの陰から手を振ってくれるようになりました。これはとても希有なことなんですね。私たちが彼らの支援者として認められたということです。

スリランカの田舎では、ドアのない家が多くありました。お互いを知っていれば、認めていればドアも鍵もいらないんですね。地道な活動を続けて村人たちから、「あの国連の青いナンバープレートに乗っている人たちは支援者なんだ」とわかってもらう。それが治安の回復には必要なことなのです。それができてからは私たち自身の安全にも確信が持てるようになりました。

Q5 今後の活動予定は?

長期の暮らしに耐えられるレンガ造りの住居

長期の暮らしに耐えられるレンガ造りの住居

私はパキスタンで、主に洪水被災者支援の指揮にあたり、被害の状況を見ながら、物資の支給を決定しています。地域のスタッフには経験の蓄積がありますから、その声を集約していこうと思っています。洪水の被災者の方々へは、長期の暮らしにも耐えられるようにレンガ造りで、屋根もしっかりしており、少々の地震にも耐えられる住居の建設が必要です。テントの7倍近くの費用がかかりますが、家を失った人々が生活していくには必要です。皆様のご支援を引き続きお願い致します。

 

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UNHCRは故郷への帰還支援にも力を入れています。2010年は10万7000人が帰還しましたが、パキスタンには今でも難民が170万人、国内避難民は100万人以上います。難民支援を任務としているUNHCRですが、洪水のような自然災害の場合でも支援活動を任されるのは、現地にわれわれのオフィスがあり、緊急援助活動に関するノウハウの蓄積があるからですね。現場で一番活発に活動しているのはUNHCRですから、それが評価されているということでしょう。

 

洪水の被害はあまりにも甚大ですが、支援者の皆様からの迅速で温かいご支援が大きな励みになりました。ありがとうございます。洪水の後の援助活動は今も続いています。これからも、全力で活動にあたりますので、引き続きのご支援を宜しくお願いいたします。

注:2010年12月の一時帰国の際にお聞きし、2011年2月中に加筆したものです。

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