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支援の現場から

ホーム、それはあなたの周りの人々のこと イラク少数民族ヤジディ出身アディバの物語

アディバ

アディバ・カシムは、父親をISISの戦闘員に殺された少年ハニとエヴァンと共に2016年、イラク北部のヤジディの聖地ラリッシュを訪問した。アディバは現在、ジュネーブ大学で学び、ジュネーブ安全保障政策センターで特別研究員をしている。

※本ページ掲載の記事はUNHCRが提供しているポッドキャストのトーク番組「Awake at Night」の翻訳です。「Awake at Night」は世界で最も困難で危険な場所で人道支援家として活躍する人々との対談です。

 

音声と原文はこちら(英語)

 

目次

出生が認められず、学校に通えなかった子ども時代
ヤジディとは。ISISによる支配。そして故郷シンジャルを追われて
トルコ⇒レスボス島⇒ドイツ 避難の道のり
人道支援家としてのスタート
「においの記憶が、今も夢に」戻った故郷で目にした惨状
モスルで殺された友人。「彼は私の半分を持っていきました」
スイスで見つけた新しい居場所
眠りを妨げるもの。そして未来へ向けて

 

アディバ・カシム

Adiba Qasim

 

アディバ・カシムはイラク北部の少数民族ヤジディ出身です。2014年8月、彼女の村は過激派組織ISISによって襲撃され、数千人のヤジディの人々が殺害されたり奴隷にされたりしました。アディバと彼女の家族は過激派が到着する直前に逃げることができました。彼女は当時19歳でした。

 

「朝の7時に親戚が父に電話をしてきてこう言ったんです。『我々は今、北部に向かっている。ISISが午前3時に我々を攻撃し、多くの人が殺されて、大変な状況だ。だから逃げろ! 家から出るんだ!』」と。

 

アディバの友人や親戚の多くはISISに拘束され、そして性的奴隷として拘留されました。彼女はその事実にさいなまれていました。その中には生き残った人たちもいました。その人たちが解放されたとき、アディバは彼女たちを救うべく寄り添い続けました。

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メリッサ・フレミング(MF):アディバの話は本当に私の心を打ちました。それは、彼女が生き残ったからだけではなく、自分自身を立ち直らせて生まれ変わり、自分や自分の家族、同胞が経験した苦しみを人々が味あわなくてもすむように、奮闘している姿があったからです。

 

メリッサ・フレミングです。世界人道デーの日の特別版「Awake at Night」へようこそ。

 

アディバ・カシムはイラク北部の少数民族ヤジディ出身です。2014年8月、彼女の村はISISの過激派によって襲撃され、数千人のヤジディの人々が殺害されたり奴隷にされたりしました。アディバと彼女の家族は、過激派が到着する直前に逃げることができました。彼女は当時19歳でした。

1.出生が認められず、学校に通えなかった子ども時代

アディバ・カシム(AQ):朝の7時に親戚が父に電話をしてきてこう言ったんです。「我々は今、北部に向かっている。ISISが午前3時に我々を攻撃し、多くの人が殺されて、大変な状況だ。だから逃げろ! 家から出るんだ!」と。

 

MF:アディバの友人や親戚の多くはISISに拘束され、そして性的奴隷として拘留されました。彼女はその事実にさいなまれていました。

 

その中には生き残った人たちもいました。その人たちが解放されたとき、アディバは彼女たちを救うべく寄り添い続けました。

 

AQ:彼女たちは肉体的にも精神的にも病気でした。とても辛かったです。なぜなら、彼女たちから最初に投げかけられたのは、「あなたも誘拐されたの?」という質問だったからです。彼女たちは最初、誰もが誘拐されて、奴隷として連れていかれたと思っていたからです。時には、夜中に泣き叫び、あなたたちの誰1人として私たちが経験したことをわかっていないと言う人もいました。誰も私たちを理解してくれないと。私は彼女たちのそばに座り、話をしようと心がけました。私はみんなに寄り添いました。

 

MF:これが彼女の人道主義者としての活動の始まりでした。アディバは現在、難民としてスイスに暮らしており、ジュネーブ大学で勉強しながらジュネーブ安全保障政策センターの研究員として働いています。故郷であるイラク北部の小さな村からは遠く離れていますね。

 

MF:アディバ、あなたをここにお迎えすることができて光栄です。ジュネーブのスタジオで「Awake at night」のポッドキャストにお越しいただきありがとうございます。ようこそ。

 

AQ:お招きいただきありがとうございます。

 

MF:あなたの出身や、故郷の村がどのようなところで、どこで育ったかを説明していただけますか。

 

AQ:私はカーナソルという村の出身です。いわゆるイラク北部の町で、シリアとの国境に非常に近い場所で暮らしていました。子ども時代は楽ではありませんでした。とても大変でした。

 

MF:あなたの生まれた境遇はどのようなものでしたか。それによってどんな困難があったのでしょうか。

 

AQ:私たちはヤジディという少数民族の出身です。ご存知のように、私たちは過去の歴史において、何度も何度も集団虐殺を経験してきました。それはともかくとして、私の場合は、生まれたときに出生が認められなかったことが原因で苦労しました。1993年に生まれ、80年代の戦争、つまりイラク・イランの戦争の犠牲者となりました。つまり、生まれたときに出生が認められなかったんです。身分を証明するものがありませんでした。

 

MF:それは、あなたの母親の当時の夫がその戦争で戦って亡くなったからですよね。

 

AQ:はい。母はいとこと結婚しました。その後、80年代に、彼はサダムに強制されて……誰もが強制的に戦闘にかり出されました。彼は連れ去られ、実際にはイランで殺されていました。母は、彼女は何年も待っていました。しかし希望を失い、その後私の父と新しい生活を始めました。 母は1992年に私の父と結婚し、結婚証明書を取得するために役所に行きました。しかしそこで、「あなたは結婚していて、まだ離婚していないので結婚できません」と言われました。母は「ですが私の夫はイランで殺されたんです」と彼らに言いました。彼らは、死亡証明書や書類はどこにあるのかなどと母に尋ね、母は、「でも遺体は戻ってこなかったんです」と伝えました。すると彼らの返事は「では駄目ですね」でした。ですから私の両親の結婚は認められませんでした。そして私が生まれたときも私の出生は認められませんでした。私は存在しないことになっていました。

 

MF:あなたは無国籍状態だったと。

 

AQ:はい。

 

MF:それで、あなたのお母さんはあなたを学校に通わせたかったのにどうなったのですか。

 

AQ:身分証明書がなかったために、学校側に受け入れられませんでした。

 

MF:それであなたの友達全員が学校に行ったのにあなたは学校に通えなかったと。

 

AQ:はい。私のいとこ、友達、みんな学校に行きました。眠っていると、私はいつも夢を見ていました。私はいつも学校で何かを書いていたり、本を持っていたり。することを夢見ていて、そうした真似をしていました。友達の本を借りて、いつも彼らと一緒にその本を読んで勉強していました。

 

MF:そして、時々実際に学校に行ったりしていたんですよね。この状況にどう対応したのですか。

 

AQ:先ほどお話したように、学校は家からそれほど遠くありませんでした。友人や村の他の子どもたちは学校に通っていました。だから彼らと一緒に歩いていって、窓の外から授業を聞いていました。学校の中には入れませんでしたから。

 

MF:では、実際には教室の外で立っていたのですか。

 

AQ:はい。学校には警備員がいて、いつもその警備員が私のところに来て、「あっち行け。見るな」などと言って私は追い出されていました。でも私は反対側に走っていって、そちら側に教室が2つあったので、その窓のところに行きました。

 

MF:つまり、実際にはあなたは何とかして自分で学んでいったんですね。

 

AQ:はい。私はいつもこのことを誇りに思っています。それにそこにいたときはいつも自分の中に何か特別な思いがありました。私は、「そうよ!そうよ!読み書きできるようになって、学校に行ってそれをみんなに見せれば、きっと私にもチャンスが与えられるはず」というような感じでした。そして、実際にそのとおりになりました。2013年までは1人で勉強をしていましたが、その後、ある教育省の人に出会いました。サダムがいなくなった2003年以降、イランはイラクに遺体を返還し始めました。母の夫の遺体は2003年に帰ってきました。その後、父は私たちの書類を作成することができ、2008年に私はようやく出生が認められました。

 

MF:それで、あなたは最初の証明書を手にしたと。

 

AQ:10代のころでした。

 

MF:年齢は?

 

AQ:当時はもうボーイフレンドがいるような年ごろで、小学校に行くには遅すぎましたが、私はすでにその年齢の十分なレベルに達していました。15歳か14歳でした。私は何かチャンスはないかと探し始めました。そして2013年に、モスルの教育省から来た人物に出会い、こう言ったんです。「どうぞテストしてください。試験を受けてもいいです。でもとにかく私にチャンスを下さい」と。

 

MF:彼はあなたに何と言いましたか。

 

AQ:彼はとても喜んでくれました! 彼は「OK」と言って私を黒板のところに連れていきました。彼が教育と苦痛についてなどの詩を暗唱し、私はそれを書き写しました。彼は満足して、喜んでくれました。そして、「試験を受けに来てもいいですよ」と言ってくれました。ですが問題はモスルに行かなければならないということでした。私はシンジャルの少数派の出身で、女性で、しかもヤジディ出身です。モスルは非常に危険な場所でした。時々、検問所の兵士が、「戻りな! こんな状況で誰が学校のことなんか聞くんだ。君はとても若い。家に帰るんだ」と言いましたが、私は「ノー」と答えました。

 

MF:でもあなたは試験に合格したと。

 

AQ:試験に合格しました。

 

シンジャル山近くのカーナソル郊外でのアディバ(2013年)。ISISが来る前の、髪を短く切る前の写真。「本当に多くの悲しみを抱えていたのです」と彼女は説明した。

2.ヤジディとは。ISISによる支配。そして故郷シンジャルを追われて

MF:知らない人のために、ヤジディの人々について少し話していただけますか。ヤジディであるというのはどういうことなのでしょうか。

 

AQ:ヤジディは独自の宗教を持つ少数民族です。中東では最も古い宗教の1つです。ヤジディ教徒はイラク北部のシンジャルや、シリア、トルコで暮らしています。以前はイランにもいましたが、今はもうほとんどいません。他国に移住してしまいました。ですから今はロシアやアルメニア、ジョージア、米国、カナダ、ドイツに大きなコミュニティがあります。今はもうどこにでもいます。ですが私たちの言葉は受け入れられませんでした。ヤジディ教徒声をあげられませんでした。

 

MF:コミュニティはどんな感じでしたか。どんな思い出がありますか。

 

AQ:私たちはとても貧しかったのですが、とても幸せでした。ヤジディの人々はとても明るいんです。私の村はとにかく素晴らしくて、みんな踊りが大好きでした。みんな幸せでした。誰もがこの文化を持っていることをいつも誇りに思っていましたし、74回の集団虐殺でも私たちを滅ぼすことはできなかったといつも言っていました。また、私たちの村には山もありました。シンジャル山です。この山は非常に多くの人々を集団虐殺から救いました。 2014年の前回の集団虐殺では、多くの人々がこの山に逃げ込みました。そうやって彼らは生き延びることができました。2014年以来、彼らは今もこの山の山頂で暮らしています。村に戻ることができないのです。ですが、そうですね、私の村での生活は……毎週水曜日に山に行っていました。水曜日は私たちにとって聖なる日なのです。私たちには聖地があり、毎年これらの聖地を祝い、清めていました。シンプルな生活でしたが、美しく、平和でした。

 

MF:ISISの過激派は、2014年まで、シンジャルとイラク北部のあなたの村を含む他の町を占領していました。そして彼らはヤジディの人々を標的にしました。あなたを含め、何万人ものヤジディ教徒が避難を余儀なくされました。多くの人が捕らえられ、誘拐され、生き延びることができなかった人々もいました。その運命の日に何が起こったのか教えてもらえますか。

 

AQ:2014年8月3日の早朝、私たちはシンジャルの家の屋根で寝ていました。とても暑い日でした。シンジャルの南に親戚が暮らしていました。そこはISISが最初に占領した地域です。朝の7時に、親戚が父に電話して言いました。「今朝3時にISISが私たちを攻撃してきたので私たちは北に向かっている。たくさんの人が殺されて大変な状況だ。だからあなたたちも逃げなさい、家を出なさい」と。

 

衝撃的でした。多くの人々は車に家族と服を乗せてただひたすら山へ逃げました。誰1人として、自分たちがどこへ向かっているのかわかっていませんでした。私たちはISISに包囲されていました。 6月にISISがモスルを占領した後、クルド軍が北部にやって来ました。7千人くらいでしょうか。どのくらいだったのかはわかりません。彼らはやって来て、「我々がシンジャルを保護しますからあなたたちには何も起こりません」と言いました。そしてそのときに私たちを避難さえさせてくれませんでした。

 

ですが実際には、ISISが到着したとき、彼らは皆、私たちを置き去りにしました。私たちは取り残され、戦おうにも武器すら持っていませんでした。私たちには何もありませんでした。私たちは置き去りにされました。また、それより前に、彼らは、クルディスタンも国境を閉鎖したと私たちに告げていました。つまり私たちはクルディスタンに行くこともできず、ここにとどまっていなければならない。けれど何も起こらないから大丈夫だと。そのために、多くの人々が直接クルディスタンに行かず、殺されたり誘拐されたのです。

 

とにかく、私たちは朝の7時にショックを受けましたが、父はこう言いました。「我々は逃げない。ここにいなければならないし何も起きない」と。他の親戚も、「いや、私たちは逃げない。何も起きるはずがない」と言いました。隣村にいたイスラム教徒のアラブ人の隣人たちも私たちに電話をしてきて、「逃げないで。たいしたことないよ。ISISはただ実権を握ろうとしようとしているだけ。だからここにいて。私たちがあなたたちを守るから」と言っていました。

 

ですが実際には、最初に女性を連れ去ったり男性を殺し始めたりしたのはこのアラブ人の隣人たちでした。私は、父と兄弟たちに、「逃げないと」と強く言いました。シンジャルのほぼ7割が占拠されていたのに、私たちはまだ家にいたのです。

 

ですからお昼の11時半か12時頃に、父と兄弟たちも無理に避難させました。小さな車に14人が乗って。その10分後にISISは私の村に到着しました。私の他の親戚は70人全員連れていかれました。実際には、隣人に連れていかれました。到着したばかりの見知らぬISISの人間にではなく。親戚は隣人に連れていかれたんです。

 

MF:ISISと共謀した隣人たちということですね。

 

AQ:はい。

 

MF:それで、あなたたちはその10分の間に逃げたんですね。

 

AQ:はい、とても運がよかったんです。村を出る際、たくさんの事故が起きていました。それはひどいものでした。私たちの目の前で人々が亡くなっていました。みんな急いでいましたから。ペシュメルガとクルド軍は私たちを置き去りにし、自分たちは身を隠そうとしていました。その後、シリアから私たちを保護するためにPKKが来てくれましたが、そこで衝突(訳注:事故による衝突と解釈)が起きて亡くなった人もいました。

 

また、私には半分血のつながった兄たちがいます。兄の1人は自分の車を運転していましたが、事故で車が動かなくなりました。そのときに戦闘が起きて、私たちは彼を置き去りにしました。私たちは言いました。「誰もが自らの命を守る、それだけだ」と。実際、そのときその兄と兄の家族が生きていたのか亡くなっていたのかはわかりませんでした。数日後、彼らが生きていることを知りました。誰もがただ自分自身の命のことだけを考えていました。

 

イラクのヤジディコミュニティからの国内避難民16,562人々が避難しているイラク北西部のカンケ国内避難民キャンプ。2014年の夏にこの地域で紛争から逃れた避難民を収容するために設立された。

イラクのヤジディコミュニティからの国内避難民16,562人々が避難しているイラク北西部のカンケ国内避難民キャンプ。2014年の夏にこの地域で紛争から逃れた避難民を保護するために設立された。

MF:どこに逃げたんですか。

 

AQ:実際、安全な地域であるクルディスタンまで行くのに1時間かかります。私たちは12時に出発し、安全な地域に夜、到着しました。安全な地域にたどり着いたときに車のガソリンがなくなり、路上で一夜を明かすことにしました。

 

ですが、ちょうどそこに小さなお店……小さな食料品店があり、ガソリンも売っていました。そこで私たちはそこへ行き、ガソリンを分けてもらえるか尋ねました。彼らは「どこにも行かなくて大丈夫ですよ」と言って、私たちを家に迎え入れてくれました。その夜、私たちはそこに泊まらせてもらい、シャワーを浴びたり食事を取ったりして、翌朝、クルディスタンの別の地域に向かいました。そこで建設中の建物を見つけ、その中に入りました。この建設中の建物の所有者に、ここにとどまらせてほしいと頼みました。私たちはたくさんの家族と共に移動していましたが、全員でこの建物内にとどまりました。

 

その建物は決してきれいではありませんでした。水も十分ではなかったし、トイレなどもありませんでした。私たちはそこにしばらくいました。私は、何もできなかったことを悔やむきょうだいや両親の顔をただ眺めていました。彼らは罪悪感を持っていました。そしてISISも数キロ先まで近づいていました。ですからそこもすぐに離れなければなりませんでした。私たちは「国境近く、イラクとトルコの国境まで行こう」と言いました。ですからザーホーまで行き、とある学校に向かいました。人々はその学校で暮らしていました。実際には、私たちはその学校の外に滞在していました。毛布にくるまりながら。毛布以外に何も持っていませんでしたから。私たちが着ていた服、つまりパジャマだけしか持っていませんでした。

 

私たちはこの学校に約15日間滞在し、誰がまだ生きているのか、誰が誘拐されてしまったのか、そして何が起こったのかを調べて把握しようとしました。そして、何人かの親戚と連絡を取っていたため、親戚全員がシリアに連れていかれたことを知りました。最初、彼らは携帯電話を持っていたんです。

 

MF:彼らは何と言っていましたか。

 

AQ:実際のところ、彼らは自分たちがどこに連れていかれるのか知りませんでした。そしてその後、連絡が取れなくなりました。

 

MF:その後、あなた方はどうしましたか。

 

AQ:私たちは15日間学校に滞在しましたが、とても大変でした。支援団体や人々が私たちに食べ物、毛布、衣服を与えてくれました。そして、私は運転手にお金を払って家族をトルコに連れて行きました。運転手は私たちを国境のある山岳地帯まで連れていってくれました。私たちは山に入ってから歩いて登っていましたが、国境までたどり着くのに2日かかりました。

2015年1月23日に、イラク北部のカンケ国内避難民キャンプで撮影された避難民イラク人。カンケ国内避難民キャンプには、2014年8月に避難したシンジャルからの10,000人以上の避難民が住んでいる。

2015年1月、カンケ国内避難民キャンプで撮影された避難民。カンケ国内避難民キャンプには、主に2014年8月に避難したシンジャルからの10,000人以上の避難民が住んでいる。

3.トルコ⇒レスボス島⇒ドイツ 避難の道のり

MF:それで、あなた方はトルコのキャンプに行ったのですか。

 

AQ:あの当時、もう少しでトルコにたどりつくというころには、私たちはもう誰も信じられず、すべてを失っていました。トルコ兵が来て、「国に戻れ」などと言って私たちを帰そうとしました。私たちは、私たちにはもう何もない、と言いました。私たちには失うものももうない。私たちを殺したいのならそうしなさい、と。でも私たちは国には戻らない。そうして彼らは私たちのもとを去ったので、私たちは歩き続けました。すると今度は近くの村から人々がやって来て、私たちをなだめてくれたりしました。ですが私たちは彼らを信用しませんでした。私たちは、駄目だ、もう歩けない、もうこれ以上進めないと話していました。すると彼らは私たちのところに来て、クルマンジーで話しかけてきました。

 

MF:彼らはあなたたちの言葉を知っていたのですね。

 

AQ:はい。彼らはクルド人だったからです。そして、トルコにもヤジディがいます。私たちは学校に滞在していましたが、彼らが私たちを車で軍事キャンプまで連れていってくれました。私と私の家族は全部で7人でした。私たちは3メートル四方の小さな部屋に滞在していました。それが「私たちの持っているすべて」でした。そこが台所であり寝る場所でした。私たちは互いに肩を寄せ合って寝ていました。

 

MF:そしてあなたは?あなたは何をしていましたか。

 

AQ:私はある意味、活動的でした。実際には掃除をしていました。キャンプを掃除し、扉や窓を洗ったりしていました。

 

MF:ですが、あなたはこのキャンプで勉強も続けましたね。

 

AQ:はい。私は英語が話せませんでした。話せるようになりたかったです。起きたことを伝えたかったんです。キャンプに英語を話す男の人がいたので、私はいつも彼の後ろをついて歩きました。どこへ行くにも彼の後をついていき、私たちがどこから来たのか、私の年齢はいくつだといった言葉を聞き取り、文章を作っていました。あきらめることはできませんでした。私は常に戦っていました。私はいつも新しいものを探し求めていました。

 

MF:そのときに、何が起きているのか……特に女性に何が起きているのかについて、おそらく耳にしたんですね。おそらくあなたの友人の何人かについて。

 

AQ:はい、もちろんです。私のいとこ、私の友人……彼女らの何人かは、彼ら(ISIS)に触れられないようにすぐに自殺しました。それで、私はそのような話を聞きながら、同時に自分の中に罪悪感も持っていました。

 

MF:どんな罪悪感だったのですか。

 

AQ:つまり、もし10分出遅れていたら私もその1人になっていたということです。今、自分は自由であること、そして彼らは連れ去られたということに、私は非常に罪悪感を感じていました。本当に辛かった。おかしくなりそうなほど。

 

MF:その後、あなたはきょうだいに対してある決断をしたんですよね、確か。

 

AQ:はい。人々はキャンプを去り始めていました。ボートでトルコからギリシャに向かう人々も出始めていました。

 

MF:そうですね。これがヨーロッパの難民危機と呼ばれるものの始まりでしたからね。

 

AQ:そのとおりです。

 

MF:シリア人とイラク人が、トルコから船でギリシャへ渡り始めていたころですね。

 

AQ:はい。人々がトルコを去り始めたとき、私もきょうだいたちをボートに乗せてヨーロッパに送りました。

 

MF:彼らはいくつでしたか。

 

AQ:そうですね、最初に妹と弟を送り出しました。妹は19歳で、弟は12歳でした。彼らは徒歩で送り出しました。他のきょうだいは、1人は20歳でもう1人は16歳でした。彼らはボートに乗せて、レスボス島へ行かせました。

 

MF:彼らは最終的にどこへ行ったのですか。

 

AQ:彼らは最初にレスボス島にたどり着き、その後、支援団体に助けられてドイツへ連れて行ってもらえました。その後、その支援団体によって、他のきょうだいたちとドイツで再会することができました。

4.人道支援家としてのスタート

MF:あなたの家族……あなた以外の家族全員は今一緒にいますよね。ドイツで。

 

AQ:はい。ですが私は故郷から出ていきたいと思ったことは1度もありませんでした。私はいつも故郷の地にいたかった。それに先ほど言ったように、私は自分の中に罪悪感がありました。故郷を見捨てるなんてあり得ない、という感情を持っていました。目を閉じてをしてただ去っていくことは簡単です。新しい生活を始めるのはとてもとても簡単ですが、私は現実の中にいることを選び、コミュニティにとどまることを選びました。だからきょうだいたちを見送り、両親には、私は戻らなければいけないのと伝えました。そして2015年にイラクに戻りました。

 

MF:そこで何をしたのですか。

 

AQ:私はリハビリテーションセンターへ行き、性的奴隷にされた女性たちや、子どもと一緒に何とか生き延びた女性たちを支援していました。

 

MF:するとそれがあなたの最初の……

 

AQ:はい。

 

MF:あなたは人道支援家になったのですね。彼女たちは何とか逃げ出せた……

 

AQ:彼女たちは逃げ出して間もない人々でした。私はあらゆる痛みを彼女たちと分かち合っていましたし、彼女たちは肉体的にも精神的にも病気でした。また、彼女たちを病院に連れていかなければなりませんでした。

 

MF:あなたの役割は何でしたか。

 

AQ:私はどちらかというと通訳や、彼女たちを見守りながら一緒にアクティビティをしていました。ですが辛かったです。なぜなら、彼女たちから最初に投げかけられたのは、「あなたも誘拐されたの?」という質問だったからです。

 

MF:彼女たちはあなたにそう尋ねたんですか。

 

AQ:はい。当初、彼女たちは、誰もが誘拐され、誰もが奴隷として連れていかれたと言っていましたから。とても辛かったです。夜に時々、過去の場面よみがえって、あなたたちの誰1人として私たちが経験したことをわかっていないと泣き叫びながら言う人もいました。誰も私たちを理解してくれない。私たちは死にかけてるの、と。

 

MF:それで、あなたは彼女たちのそばにいてあげたのですか。

 

AQ:はい。同じ家で、時々夜も寝れませんでした。夜中の2時頃まで通訳しなければなりませんでした。彼女たちが眠れなかったから。私は彼女たちのそばにいて話をしようと努めました。彼女たちは自分の話に耳を傾けてくれる人も求めていました。私はみんなに寄り添っていました。

 

MF:特によく覚えているエピソードなどはありますか。

 

AQ:はい、全部です。全員のことをよく覚えています。彼女たちはみんな、あまりに多くのことを経験してきました。強いていえば、2人の若い女の子がいました。15歳と16歳の子でした。1人は捕われているときに出産しました。彼女は子どもの写真を持っていましたが、その子は出産後に連れ去られてしまいました。彼女はわずか16歳でした。彼女は苦しんで叫んでいましたが、その話は誰にもしていませんでした。それを私に話してくれたんです。

 

もう1人の女の子は15歳で、自分がどんなふうに売買されたか、父親が彼女を隠し、連れ去られないようにするために男の子の服を着させたことなどを話してくれました。ですがその後、男の子たちは軍のキャンプに連れて行かれ、その後彼女は奴隷として強制的に連れて行かれてしまいました。そして、逃げる方法を見つけたものの、道で密輸業者に強姦されたことなどを話してくれました。ですからこの2人はいつも私と一緒にいて、私はどこへ行くにも彼女たちの体を支えていました。

 

MF:こういった恐ろしい犯罪を経験した生存者の方たちの話は……このような話は今のあなたにどんな影響をもたらしていますか。

 

AQ:怒りを覚えます。なぜこんなことが起きたのかと私はいつも問い続けています。ですがそれと同時に、私たちは非常に強いとも常に思っています。私は常々、このような女性たちは、辛い現実を乗り越えようとしている最も強い人々だと思っています。再び生きようとしています。先ほどの2人の女の子たちは今、自分の人生を歩んでいます。1人はオーストラリアで新しい生活を始めました。そしてもう1人はドイツにいます。ですから私は彼女たちをとても誇りに思っています。ですがそこにはあまりに大きな痛みもありました。あまりに大きすぎる痛みが。と同時に、私は誇りに思います。私は自分の生まれを誇りに思います。私のコミュニティも誇りに思います。これまでどんな経験をしてきたかにかかわらず。ですが、もちろん大きな怒りの感情はあります。私は今、ジュネーブにいます。いわゆる人権の中心街です。話を聞きたい人ばかりとは限りません。理解したいと思っている人ばかりではありません。もちろん、私たちの話は人々の心に響きます。私たちが話をすると喜ばれますし、私たちが経験を語ると熱心に聞いてもらえます。でもその後は?

 

イラク北部でISIS戦闘員が隠れてヤジディ女性を捕虜にしたトンネルを調査するアディバ(2017年)。女性の持ち物を懐中電灯で指し示している。

 

MF:この話を語り続け、恩返しをしたり人々を助けることがあなたの使命だと思いますか。この活動はあなたの将来やあなたの目標にどんな影響を与えていますか。

 

AQ:今のところは、集団虐殺について、何がどのようにして起きたのか、知ってもらう啓発活動をしています。戦争中の生活はどんなものか、など。でも自分でもよくわかりません。それに、大きな責任を背負っているとも感じています。また、集団虐殺の後、いつも一緒にいた友人を失いモスルの解放作戦の際に、ジャーナリストやとても親しい友人たちを殺されました。彼らは捕虜にされた人々を救おうとしたり、モスルに身を潜めていた女性たちを見つけ出そうと奔走していました。彼らは私に仕事を託して去ってしまいました。だから私はその責任を負っています。ですからそれが、私が今考えていることです。

MF:あなたは、逃げ延びることができたヤジディの女性たちや少女たちのそばで人道的な活動をしていましたが、ある時点でそこから次の段階に移ったと思います。次に何をしたのですか。

 

AQ:文書化に関わる仕事を始めました。集団虐殺を記録に残すことは非常に重要だからです。この仕事をしている女性はそれほど多くありませんでしたが、私は、そこに女性がいることが非常に重要だと言い続けてきました。なぜなら、連れ去られた多くの女性たちが語られるべき経験をしているからです。ですから記録に残すことを始めました。実際には、再び女性たちと活動し、彼女たちの話に耳を傾け、小さなことを1つ1つ、どんなに小さな話でも1つ1つ集めて回りました。そして洗脳された児童兵……ヤジディの子どもたちについても。ですがそれは簡単ではありませんでした。

 

彼らは相当強く洗脳されて、その後(兵士として)活動して刑務所に入れられました。なぜなら、その中にはISISに関わったイスラム教徒の子どもたちもいたからです。彼らは未成年で、クルディスタンの刑務所に入っていました。私は彼らを訪問し、彼らのためのリハビリテーション支援を探そうとしました。なぜならこれでは状況は良くならないからです。彼らは成長し、刑務所で大人になります。そして刑務所を出ると未来のテロリストになるのです。だから、私たちは彼らのための教育的リハビリテーションを見つけなければいけません。また、私は国際的なメディアに参加するようになり、故郷に戻るようになりました。文字どおりホームに戻り、生まれ育った街を再び訪れるようになりました。

 

アディバはISISが犯した残虐行為の記録を集めるためにイラク北部のシンジャルに戻った。2017年にこの写真が撮影されたとき、ここからわずか1キロ先が最前線だった。

5.「においの記憶が、今も夢に」戻った故郷で目にした惨状

MF:あなたが初めて故郷に戻ったとき、あなたの目に街はどのように映ったのか教えてください。

 

AQ:空っぽでした。生気がありませんでした。すべてが黄色でした。大量の爆弾、大量の共同墓地。そこには数人の兵士しかいませんでした。もはや不毛の土地になっていました。家もありませんでした。すべてが様変わりしていました。想像できますか。今でも夜眠れないときがあります。臭いを覚えているからです。死体の臭い。まだ死んでからそんなに経っていない遺体もありました。動物も……。街はそんな様子でした。

 

私は共同墓地を1つ1つ見て回り、記録に収めたり確認して回りました。年齢の高い方々もいました。高齢という意味ではなく、ただISISにとっては年を取り過ぎているということです。

 

MF:ISISの男たちにとっては年を取り過ぎてると。

 

AQ:はい、彼らはそこで殺されたんです。

 

MF:それを記録に残していると言っていましたが、あなたの役割は何だったのですか。

 

AQ:ヤジディ・ドキュメンテーションと呼ばれる協会、事実や証言を文書化するのためのヤジディ協会という組織があります。この協会は集団虐殺の後に設立され、証拠を1つ1つ集めていく活動をしています。私のコミュニティでこの仕事をしている女性は私1人でした。最前線で活動しているのは男性しかいませんでした。怖かった・・・、いえ怖くはありませんでしたが

 

MF:あなたがこの仕事をしていることについて、男性はどんな反応をしていましたか。

 

AQ:ヤジディの男性は私がこの仕事をしていることをとても誇りに思ってくれましたし、素晴らしい経験でした。

 

 

MF:あなたのショートヘアはとても美しいですね。そのヘアスタイルについて教えてください。ヤジディの文化では髪の毛は特別な意味を持っていると思いますが、女の子が髪を短く切るというのはどんな意味を持つのでしょうか。

 

AQ:そうなんです。私もとても長いロングヘアだったんです。実際、私のコミュニティでは多くの女性が長い髪をしています。長い髪は美の象徴ですし、普通、女性はあまり髪を短く切ったりしないでしょう。夫やボーイフレンドなどを失ったりしたときに、悲しくて髪を切ることはあっても。私の髪もとても長かったんです。 2015年まで、1度も髪を切ったことはありませんでした。その後、その髪をばっさり切ったんです。長い髪でいることに興味がなくなったということもあるし、あまりにも悲しみが大きすぎてすべてを投げ捨ててしまったんです。おわかりでしょう。あまりにも辛かったこと、イラクに戻ったこと、そこで見たものすべて。

 

そうしたらすべてを悟ったような気持ちになりました。なぜなら、集団虐殺が起きて私は故郷を去って、その後、2015年に帰国して、私たちがどれほどのものを失ったかを痛感したからです。

 

MF:あなたはそれを直視していたんですね。

 

AQ:はい、私は現実を直視しました。それが現実であるということを。直視することはとても大切です。ご覧のとおり、髪も短く切りました。

 

MF:美しくてエレガントなショートヘアですよね。

 

AQ:すべてをカットしました。

 

MF:とても洗練されていて素敵ですよ。そして今、あなたはこの美しいジュネーブにいますが、ジュネーブに来ようと思ったきっかけは何だったのですか。ジュネーブに来て最初に経験したことはどんなことでしたか。

6.モスルで殺された友人。「彼は私の半分を持っていきました」

AQ:2017年にとても親しい友人を失い、私はいくつかの問題を抱えていました。

 

MF:その友人とは?

 

AQ:彼はシャヒーンといって、とても親しい友人でした。彼は小さな女の子を救おうとしてモスルで殺されました。狙撃兵に殺されたんです。彼は死ぬときに私の半分も一緒に連れていったのだと思います。私は未だにこの一件から立ち直ることができずにいます。彼に関するものを見るたび、それが今日起きたことだと感じます。彼は本当に、とても良い人でした。私は彼を失い、シンジャルの人々を失い、いくつかの問題を抱えるようになりました。というのも、政府のが介入してきて、故郷に戻ることができなくなったのです。彼らは、私が彼らにとって好ましくない団体のもとへ行くことを恐れていました。私は動き回ることができなくなり、仕事を続けることも故郷へ戻ることもできなくなりました。私の故郷。私が育った村に。行けなくなりました。

 

その後、トルコに行くことにしました。イラクを去るというのは私の選択ではありません。実際、去るという選択をしようと思ったことは1度もありません。先ほども言いましたが、自分が再び難民になってどこかに庇護を求めるということは想像できませんでした。それはとても大変なことなのです。とにかく、私は2017年10月30日にイラクを去ってトルコに到着しました。そしてスイス大使館へ行って事の経緯を説明すると、あなたは安全な場所に逃げたほうがいい、トルコはあなたにとって安全な場所ではないからここにとどまっていてはいけないと言われました。それでビザを取得してここに行き着いたというわけです。ここスイスで庇護を求めましたが、それは私の人生の中で最も辛いことだったと思います。

 

MF:あなたが経験した中で最も辛いことだったんですか。

 

AQ:はい。

 

MF:それはなぜですか。

 

AQ:亡命を求めるということは、別の場所に行かなければならないということですから……[泣き出す]ティッシュはありますか。

 

MF:ええ。

 

AQ:ですから、私は再びすべてを捨て、イラクを離れることになったのです。そしてここに着いて、庇護を求め、私の置かれている状況を説明しました。到着したとき、外は薄暗かった。スイスに着くと雪がたくさん積もっていて寒かったんです。とても悲しい気持ちでした。私はなぜ庇護を求めらければならなかったのか。なぜスイスに来たのか。なぜ私は故郷を去ってすべてを捨てなければならなかったのか。とても辛かったです。

 

私は庇護申請者センターに行きました。世界中から来ているたくさんの難民を見るのはとても辛かったです。私は人々を眺めてはただ泣いていました。私が我を忘れて泣いていると、彼らも自らの境遇を嘆いて泣きました。彼らのなかには、歩いて30日かけてここにたどり着いたという人もいました。とても辛かったです。

 

その後、庇護申請者センターの人は私の情報を入手し、「あなたが滞在できる部屋に案内します」と言いました。それから毛布をくれて、その部屋に連れて行ってくれました。ドアを開けて部屋に入ると、ベールをした女性がいました。私は、「ああ、彼女は中東出身の方ですね」と言いました。彼女はベッドで泣いていました。実際には、彼女はイエメン出身でした。彼女はイエメンの弁護士で、イエメンから来た最初の人でした。私たちはアラビア語で話をしました。2人ともただただ疲れていて、泣いて抱きしめ合っていました。その後、私たちは話し始めました。彼女はいろいろなことを説明してくれて、私たちは仲良くなりました。そしてベッドの上で、私たちは笑顔になっていきました。

7.スイスで見つけた新しい居場所

MF:アディバ、あなたはここに来て1年6ヶ月になりますが、ちょっと話を早送りして、どういう経緯で今に至るのか教えてくれますか。実際にあなたは、ジュネーブ大学で法律をフランス語で勉強していて、権威あるジュネーブ安全保障政策センターで特別研究員の資格を持っていますよね。庇護申請センターでの滞在の後、法律を学び、兵士に戦争とあなたの経験について教えるようになった経緯を教えてください。

 

AQ:スイス人の家族を見つけることができて、彼らに私の置かれている状況を説明したところ、ホストファミリーになってくれることになりました。彼らの家でホームステイさせてもらい、安心感を感じられるようになりました。この家族と一緒に過ごし、周りに何があるのか確認しなければということは自分でもわかっていました。私はスイスにいて、どんなチャンスがあるのだろうかと。実際、スイスのアムネスティで働く知人がいて、彼は2015年からヤジディの状況に関する取り組みを行っていました。そして集団虐殺に対する認識を広める活動をしていました。

 

すると、彼から、私がモスルからグリュイエール地域やフリブールなどに来た経緯についての記事を書けるかと聞かれました。私は、はいと答えました。この記事はジュネーブの新聞に掲載されました。その後、ジュネーブ安全保障政策センターのディレクターであるクリスチャン・ダッシーがその記事を見つけて、私をそこに招いてくれました。それが、私がここにたどり着いた経緯です。本当にびっくりしました。このジュネーブ安全保障政策センターで、私は本当に自分の居場所を見つけました。それまで私は、ホームというのは土地を指しているのだと思っていました。ですが私は間違っていました。ホームとは、あなたの周りにいる人々のことを指すのです。安全だと感じる場所、気分が良くなる場所、受け入れられていると感じる場所。それが、私がこのジュネーブ安全保障政策センターで見つけたものです。

 

8.眠りを妨げるもの。そして未来へ向けて

MF:アディバ、今後はどんなことをしたいですか。

 

AQ:どんなことをしたいか、ですか?学校に行けずに独学した18年間を経て、今、私はジュネーブ大学に入ることができました。ここで受け入れられたのです。そして自分のキャリアについて考えています。国際関係と法律を勉強して、将来的には人権活動をしたいと思っています。そうですね、もうすでに活動していますね。活動したい、じゃなくて、もうすでに始めていましたね。ですが、いつも言っているように未来は大きいですから、私はそれに向かって頑張りたいと思います。

 

将来私がやりたいことは、難民の権利のために戦うこと、弱いコミュニティのために戦うことだけです。私たちは受け入れられたいのです。私たちは人間です。私はジュネーブの道を歩いている人と同じです。ですが何かが起きたら「ああ、彼女は難民だったから」または「彼女は難民だから」と言われて、指を指されるかもしれません。

 

ですから、それが、私が将来取り組んでみたいことです。もちろん私のコミュニティのためにも闘い続けたいと思っています。この集団虐殺が、今日明日のことだけではないということを認識しながら。次の世代までかかるかもしれません。ですからこの集団虐殺に直面した今の世代は戦わなければなりません。私たちはしっかり勉強しなければなりません。もっと学び、それを次世代に伝えなければなりません。そして、それが私が背負っている責任です。

 

MF:前にあなたは人道的なキャリアを追求したいというようなことを言っていましたよね。

 

AQ:はい。

 

MF:アディバ、あなたは悪夢をよく見ると思いますが、あなたの眠りを妨げるものは何ですか。

 

AQ:眠りを妨げるものですか。自分が強い存在であるということ、前進し続ける力を持っていること、そしてそれを実行できるんだということを思い出して夜目が覚めますね。たぶん微笑んでまた眠りにつくと思いますけど。私は心配性ではないんです。心配するタイプの人間ではまったくないんです。理由はわかりません。私はたくさん嫌なことを経験してきましたが、同時に多くのことを学びました。

 

戦争を経験しましたが、何か嫌なことがあって落ち込むことは絶対にありません。私は戦争やあらゆる嫌な経験を利用して自分自身を築き、メッセージを創り上げ、世界に「心配いりません。私たちならできます!大丈夫、私たちは変わることができます」と発信し、伝えてきました。そしてこれが私が学んだすべてです。そして私はこれを毎日、毎晩自分に言っています。そして、私を前に進むよう後押ししてくれるものがあります。それは私の故郷、私の生まれ育った場所であり、私はいつもそれを誇りに思っています。自分の生まれ育った場所と今いる場所に導いてくれた自分自身の経験を、私はいつも誇りに思っています。

 

MF:アディバ、あなたの話を、辛い話だけでなく、あなたの驚くべき強さの話を共有してくれてありがとうございました。このポッドキャストであなたのことを知ったことを本当に誇りに思いますし、私はあなたが世界を変えると信じています。

 

AQ:ありがとうございます。

 

MF:「Awake at Night」特別版をお聴きいただきありがとうございます。番組や特集された素晴らしい方々の詳細については、unhcr.org / awakeatnightをご覧ください。 Facebookもやっていますので、@UNHCRで検索してみてください。Twitterのアカウントは@refugeesです。私のアカウントは@melissarflemingです。@QasimAdibaでアディバもフォローできますのでよろしくお願いします。また、ハッシュタグ#awakeatnightを使用して、番組の紹介もお願いします。

 

 

アディバとメリッサ

※本ページ掲載の記事はUNHCRが提供しているポッドキャストのトーク番組「Awake at Night」の翻訳です。「Awake at Night」は世界で最も困難で危険な場所で人道主義者として活躍する人々とのストーリーを紹介しています。

 

音声と原文はこちら(英語)

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