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支援の現場から

過去の難民危機から教訓を探して
難民への責任を分かち合うための対話の場において、当事者がかつてのコソボ*、グアテマラ、ベトナムの危機を顧みます

エミン・ヴォカと叔母、2017年6月、コソボ*ミトロヴィツァにて。ヴォカが家族と共にマケドニア旧ユーゴスラビア共和国を離れたのは10歳の時だった

ジュネーブ(スイス)2017年7月7日 ― ある春の夕べ、コソボ*のエミン・ヴォカの家に民兵たちが現れ、彼の父親に外に出るよう、厳しく警告しました。

コソボの紛争と人道的避難プログラム

「民兵たちは父に言いました。“明日の朝、ここを去れ。さもなければ殺す。”私たちは怯えました」とヴォカは回想します。その時、彼はまだ10歳で、故郷のミトロヴィツァで小学校に通っていました。

 

1999年3月、マケドニア旧ユーゴスラビア共和国のブラツェに到着したコソボからの難民

バスに詰め込まれて、この家族は、徒歩で、車で、そしてトラックで逃れようとする市民たちの長い列の中にいることを知りました。1999年4月、その列はコソボの紛争から必至で逃れ、南の国境へ向かっていました。

 
緊張の中、国境の町に着いた後、ヴォカと両親と妹はマケドニア旧ユーゴスラビア共和国への国境を渡ることを許可されました。そこにはマケドニアの首都・スコピエから数キロメートル離れたステンコヴェク第2難民キャンプがあり、彼らは1か月テントで過ごしました。

 
ヴォカとその家族は、いわゆる人道的避難プログラム(HEP)に基づき、イタリアへ送られました。このプログラムは、マケドニア旧ユーゴスラビア共和国に避難した数万ものコソボ人を支援する責任を国際社会が共有する姿勢を示したものです。マケドニアは、難民の一部は第三国へ避難するという理解のもとに難民を受け入れたのです。

 
「彼らは私たちに、衣料、食糧、そして最も重要な安全を与えてくれました」と、28歳になったヴォカは語ります。彼の家族はイタリア・シチリア島のコミソで暮らしています。「私の家族は、支援してくれた国際社会にとても感謝しています。」

 

スコピエ空港へ向かう列車の窓から外を見るコソボ出身の若い難民。1999年6月、彼女の家族は人道的避難プログラムによりドイツに移動

人道的避難プログラムにより、9万6,000のコソボ出身者が安全を求め世界29か国へ一時的に移動しました。これは、7月10日にジュネーブにて開催される会議で審議する「責任の共有」についての過去の実例の1つです。

 
各国政府の担当者、国際組織、NGO、研究者や専門家が集まるこの会合は、UNHCRが5つのテーマで討議する最初の話し合いの場です。UNHCRは「難民に関するグローバル・コンパクト(詳細はこちら ※英語)」を創設するためのプロセスを主導しています。

 
2016年の国連総会での歴史的な「移民と難民に関するニューヨーク宣言(詳細はこちら ※英語」で、難民高等弁務官はこの任務を与えられました。

 
「記録的な地球規模の人の移動に直面する中、国際社会が団結し、難関と思われていた難民の状況において命を救う解決方法を見出した、そう遠くない過去を思い起こすことは重要です」とフォルカー・タークUNHCR保護担当高等弁務官補は述べました。「かつて、私たちは解決できました。今回もできます。」

中央アメリカへの平和的帰還

1994年、グアテマラに帰還した女性たち

コソボでの人道的避難プログラムはこのような協力の一例にしかすぎません。1980年代後半、中央アメリカでは、ある協定によって、エルサルバドル、ニカラグア、グアテマラの一帯で起こった紛争で避難を強いられた何十万もの人々が長期的な解決策を見出すことができました。

 
その協定によって、ある人々は避難先の国へ統合し、他の人々は第三国へ定住し、そして13万4,000人が最終的に故郷へ帰還しました。その帰還した人の中に、マヤ語族に属するポプティ語を話す地元の女性、エウラリア・エレナ・シルヴェストル・ヘルナンデスがいます。

 
1982年、グアテマラの凄惨な内戦の真っ只中、シルヴェストルはグアテマラ北東部の田舎の町に住む7歳の少女でした。住民が寝ている間に兵士たちがガソリンを撒き、町を焼いた後、彼女は地元を逃れたのです。ひと家族から、赤子1人と大人2人だけが生き残りました。

 
命に害はなくても恐怖を抱きながら、シルヴェストルと彼女の家族はその後の13年間をメキシコで過ごしました。しかし、中米難民国際会議(CIREFCA)の支援を得て、1995年にグアテマラへ戻ることができました。

マヤ語族に属するポプティ語を話すエウラリア・エレナ・シルヴェストル・ヘルナンデスは、中米難民国際会議(CIREFCA)の支援により数年に及ぶ避難生活からグアテマラに帰還

「計画的な帰還のおかげで様々なことができました。」今は45歳となったシルヴェストルは言います。ペテン県の地域活動家である彼女は、農業を再開することができました。「今はちょっとした土地もあります。多くの女性、少なくとも私たちの家族は、ちょっとした土地を持っている、と思います。」

 
大規模なインフラや小さなコミュニティの開発プロジェクトを援助し、帰還しようとする難民に自信をもたらす手助けをすることによって、中米難民国際会議は平和と発展に強いつながりがあることを示しています。

ベトナム難民への保護を支える

東南アジアでも、1980年代後半、インドシナからボートで到着する人々に対応するために同じように力を合わせた努力がなされ、何千もの人々の命を脅す難局を切り抜けるための鍵となりました。

 

1987年5月、南シナ海を漂流するボートピープル

ボートで到着する人々が増え続け、西側の各国政府が定住の機会を維持することに消極的になる中、この地域の各政府は難民を受け入れないと言い始めました。これに対し、1989年に包括的行動計画(CPA)が調印され、難民流出国・受入国・定住先の国による公約がまとめられたのです。

 
包括的行動計画には、人々が安全に順序立って法律に基づき国を出る方法、東南アジアに新たに到着した人々の一時的保護、難民の第三国への定住機会を提供するためのプログラムが含まれています。難民ではないと判明した人々は、出身国に戻って生活を再建するための援助として、カウンセリングと経済支援が実施されました。

 
サイゴンで建築学を学んだタン・ダンは1989年6月、ボートに詰め込まれてベトナムを離れた63人のうちの1人です。1週間の航海の後、満杯のボートはインドネシアに到着し、ダンはガラン難民キャンプにたどり着きました。包括的行動計画により彼は難民として認定され、最終的にアメリカ合衆国に定住。ジョージア州アトランタの学校や医療機関建設に取り組んでいる建築デザイナーになりました。

 
プログラムによって可能になった自らの人生を振り返り、彼は、今日の複合化した難民危機に取り組む国際社会や普通の市民に対する熱い願いを表します。

 
「自分自身が難民の立場に立つのです。彼らはただの普通の人々です。必要もなく自分の生活から追い出され、不確かな未来に直面したいと思うような人はいないと思います」と彼は言いました。

 
「もしあなたが難民に生活再建のチャンスを与えられたら、難民は自分たちが暮らす社会に貢献するでしょう。怯えず、歓迎してください。」

タン・ダンと13歳の娘ティエン・アン、そして妻のラン・ホー。ジョージア州スワニーの自宅にて。ベトナムからの難民である彼は、国際的な合意のもと、アメリカ合衆国に定住した

シャペン・ハリリ(コソボ)、ルクレツィア・メザ(グアテマラ)、アリアナ・ラメー(ジュネーブ)からのレポート。

 
* 国連安全保障理事会決議1244(1999年)

 
より詳しい情報:「大規模な難民移動に対する責任の共有(詳細はこちら ※英語)」と「難民に関するグローバル・コンパクトへ向けて(詳細はこちら ※英語)」

 
By: UNHCR Staff

 
原文はこちら(英文)
Looking for lessons among past refugee crises

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