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日本の皆様へ
第8代国連難民高等弁務官 緒方貞子
1991年2月から2000年12月までの10年間、日本人かつ女性で初めて、緒方貞子さんが第8代国連難民高等弁務官として活躍しました。
クルド難民−命を救う大胆な決断
1991年に第8代国連難民高等弁務官に就任した当時は、冷戦が終結し、人々は世界に平和が訪れるであろうと信じていた時代でした。ところが冷戦の終焉はそれまで抑えられていた民族対立を引き起こしたために、世界各地で国内紛争が勃発し、大量の難民・避難民が発生しました。
1991年の湾岸戦争では、イラクのクルド系の人々がトルコの国境に向かって避難した際にトルコ入国を認められず、数10万人が国境地帯に滞留しました。従来、国内避難民の保護はUNHCRの直接的な任務ではなく、国内避難民に対する援助を行うべきか、行ってもよいものかがUNHCR内でも大きな議論となりましたが、緒方さんは彼らを支援することを決断しました。緒方さんは多国籍軍と共にイラク側に安全地帯を設けて保護・支援しました。この決断はUNHCRにおいても「国境を越えられない避難民を保護する」という新しい支援の道に踏み出す分岐点となりました。
当時のジェッセン=ピーターセンUNHCR官房長は「クルド難民の問題は、冷戦後の危機の始まりでした。国家間の戦争ではなく、国内紛争によって特徴付けられる時代です。今思えば、クルド難民こそ、まさに冷戦後の危機の時代の幕開けだったのです。被害者が国境を越えようと越えまいと、彼らのそばにいて保護を行うべきだ、という緒方さんの決断は重要でした。それは90年代を通じて私達の基本姿勢になっていきました。」と後に述べました。
ユーゴスラビア紛争−進まない政治的解決、危険の中での人道援助
さらに同じ年の1991年、ユーゴスラビア連邦が崩壊し、異なる民族が互いを「民族浄化」しようとする状況が生まれました。総数400万人の難民・国内避難民・被災民が救助の必要に迫られました。現地にUNHCR特使として派遣されたホセ・マリア・メンデルーセ特使は、その凄惨な状況について「ボスニアで起きていることは戦争ではない…二つの軍が戦っているのではなく軍と市民が戦っている…セルビア系武装勢力が街を制圧して、何百人もの女性、子供、老人を殺していた」と語っています。
緒方さんは人道援助を行うにも危険な状況の中、必要となる人間の生命の救助を行う指揮をとりました。セルビアの包囲によって孤立していたサラエボには、NATO軍と協力して空輸によって援助物質を届けるという作戦を行いました。しかし、国連安保理では各国の利害が対立し政治的解決は進まず、援助関係者が襲撃されるなど、UNHCRや緒方さんに対しては様々な不満の声も上がりました。サラエボの援助物資ボイコットに対しては国連事務総長を説得し輸送を停止するという、大胆かつ迅速な難民支援の活動に取り組み最終的にはそれが成功したものの、当初は批判も大きいものでした。
「私は彼女が非常に孤独だと感じたことが何回もあります。誰もが毎日、緒方さんに奇跡を起こすように頼んでいたようなものです。実際、緒方さんはいくつもの奇跡を起こしました…緒方さんは世界中のトップクラスの高官や大臣に受け入れられましたが、その日の終わりには再びひとりぼっちで、トラックや飛行機で現場に戻り、日々増える犠牲者を助けようとしていました。」(メンデルーセ特使)。
ルワンダ難民−ジレンマを越えて
アフリカのルワンダでは、植民地時代にベルギーから優遇された少数派のツチ族が、独立以降、クーデターで政権を掌握した多数派のフツ族から逆に抑圧を受け、やがて内戦に発展しました。1993年には和平協定が結ばれましたが、1994年に再び戦闘が激化、フツ族過激派によるツチ族(およびフツ族穏健派)の虐殺が起こりました。やがてツチ族は反撃に転じ、数週間で全土を制圧しました。内戦に敗れたフツ族旧政府軍の兵士たちは報復を恐れ、一般市民を率いて隣国ザイールに逃れました。ここで難民キャンプ内に混じっていた武装グループがキャンプを支配する状況が生まれました。各国の協力で難民を救済する緊急援助は動き始めましたが、援助が武装グループに渡ったり、フツ族の旧政府軍兵士や民兵たちが密かに所持していた武器によって難民キャンプを支配するという大きなジレンマに直面しました。国連軍の派遣はなされなかったため兵士と難民を分離することはできず、道義的な問題を理由に「国境なき医師団」など有力なNGOまでが撤退を表明しました。しかし、現場に援助を必要とする何10万人もの難民がいる以上、緒方さんはそれでも現場での援助活動を続けました。
人間の尊厳−私達に何ができるか
冷戦後10年の任期を通じて、緒方さんはいくつもの緊急事態を乗り越え、そのたびに新しい難民保護の枠組みを切り開きました。多発する国内紛争の中で家を追われた避難民や被災者への保護と支援。100万人単位で一気に流出する大量難民への緊急対応。紛争後の地域社会の再建時における官民の和解の促進。緒方さんが難民高等弁務官に就任して10年がたつと、UNHCRは国連人道機関の中で最も機動力の高い組織に生まれ変わっていました。それは、UNHCRが新しい事態に常に即応しつづけた結果であり、それができたのは、リーダーである緒方さんがいつも最前線の「現場」を歩き続けたからにほかなりません。
緒方さんは当時、次のように述べています。
「援助といっても、かわいそうだからしてあげるというんじゃない。やっぱり尊敬すべき人間なんですから、その人間の尊厳というものを全うするために、あらゆることをしなきゃいけないという考え方です。」
「私が難民高等弁務官を務めた冷戦後の10年間は、旧ユーゴスラビアなどにおける大規模な紛争や、それにともなう人道的な危機が繰り返された時期でした。その余波は今も続いており、世界中で多くの人々が苦しんでいます。世界はまだ平和からほど遠い状況です。」
「日本は、国際的な貢献、国際的な関与を心がけて50年の戦後を歩んできたと思います。国際社会に対する積極的な開放、承認そしてまた協力の姿勢を、難民の事を考える上でも、ぜひ今後の日本の課題として、皆様に考え続けていただきたいと思います。」
引用:
難民に関する緒方さんの書籍:



緒方貞子 第8代国連難民高等弁務官の略歴
1976-78年、国連日本政府代表部公使を、78-79年には、同代表部特命全権公使を務めた。第22、25、30〜33回国連総会に日本政府代表として出席したほか、第10回軍縮特別総会にも日本政府代表として参加。
1978-79年、ユニセフ執行理事会議長。
1982-85年、国連人権委員会の日本政府代表。
1983-87年、国際人権問題委員会委員。
1990年には、国連人権委員会専門家として、ミャンマーの人権状況に関する調査を行う。
1991年 : 第8代国連難民高等弁務官に就任(1990年12月21日国連総会にて選出、任期は1991年1月1日から3年、2月18日就任)。
1994年1月1日 : 国連難民高等弁務官に再任(1993年11月4日国連総会にて再選。任期5年)
1999年1月1日 : 国連難民高等弁務官に再任(1998年9月29日国連総会にて再選。任期2年)
2000年 : 難民教育基金を設立
人間の安全保障委員会共同議長、アフガニスタン支援政府特別代表、国連有識者ハイレベル委員会委員、人間の安全保障諮問委員会委員長に就任し、2003年10月1日より、国際協力機構(JICA)理事長。 |




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